大宜味村の猪垣 大宜味村押川六田原ほか
サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号塩屋橋を渡り大宜味村に入る。すぐ先の塩屋入口交差点から国道331号へ右折、屋古の宮城新昌翁(世界初牡蠣養殖の父)頌徳碑前まで行く。案内標識が消えてわかりにくいが、左折する車道が六田原展望台への入口。急坂の車道をかなり上がる。
展望台広場に着き休憩舎・WCのところに、猪垣史跡説明板と遊歩道詳細ルート図(拡大のこと)がある。遊歩道登り口から約30分ほど塩屋富士先の③地点まで登ると、長い石塁が現れる。ここが村指定史跡区間「大宜味村の猪垣」の一部で、古い集落写真の説明板があった。この先は時間がなく引き返した。
大宜味村の猪垣 おおぎみ・いがき
(国頭)大宜味村 猪垣(石塁) 総延長約1.5㎞ (指定距離1.3㎞),高2.1m-1.2m 1782年改修 村史跡 WEB 樹林中に明瞭に残る 塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘の住民が1776-85年に大改修当時「万里の長城」にちなんで、「十里の長城」とうたわれた 2 B
大宜味村HPの村指定文化財による説明は、次のとおり。
大宜味村の猪垣(ヤマシシガキ)第1号 村指定文化財
【種 別】史跡
【指定名称】大宜味村の猪垣(オオギミソンノヤマシシガキ)
【所在地】大宜味村全域を囲むように喜如嘉〜津波まで 全長約31km
【村指定区域】字押川六田原(前ホテルシャーベイ跡地付近)〜根路銘棚原山林間(上原ハキンジョウ)
【村指定距離】約1.3km(詳細地図)
【猪垣の説明】
私達大宜味村の先祖は、杣山(現在村有地)と農耕地(畑)との境界に猪垣を築き、畑地へのヤマシシの侵入を防ぎ、畑を守ってきた。殊に猪垣に隣接する土地の所有者は代々自分の畑を守るためにも、大宜味村全域の畑を守るためにも、自分の土地に接する猪垣を責任を持ってその保全に努め、崩れたら直ぐに補修をして猪垣を維持してきた。
1776 年から 1782 年にかけて、塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘等の住民が各むらの役人の指揮のもとに、猪垣の大々的な補修工事が行われ、高さ七尺(約 2.3メートル)より四尺(約 1.3メートル)の石垣を完成したところであり農閑期や月夜に石を集めてつんだとも記録されている(『球陽』尚穆王〔ショウボウオウ〕より)。そのため、1605年に野国総監が沖縄に芋苗を持ってきて、作物として定着した頃、初めて猪垣が構築されたと思われる。
その後も代々の私たちの先祖は、生きるために猪垣を維持し、戦後も村民を最大動員して大宜味村全域を囲い込む猪垣の補修を行ってきた。戦後60年、今も村有地と個人有地の境界に、その猪垣が残っている。
私達の先祖は何世代にもわたって、個人としても、むら全体としても猪垣の保全に万全を期してきた。大宜味間切としては内法を定め、むら役人は猪垣を巡回し、猪垣が壊れた箇所があればそこの猪垣管理者に修繕を命じ、次に巡回したときになお修繕がなされていない者には科料米ニ升の拠出を命じたものであった。
畑へのヤマシシの侵入は、主食であるイモやすべての作物を失うことにもなり、農民の生存にかかわることだけに、猪垣をもってヤマシシの侵入を防ぐことは農民の生きるための戦いでもあった。
猪垣には私達村民の先祖の歴史が刻まれている。大宜味村全域を囲い込む猪垣は「十里の長城」とも呼ばれ、構築から改修・保全と大宜味村に住んでいた人々の長い歴史の証しである。私達村民の先祖の歴史を語ってくれる貴重な文化遺産である。