高橋氏調査 佐世保北西部の砲台跡の現況
佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料。同氏が最近、調査した佐世保北西部の高後崎砲台・牽牛崎砲台・前岳堡塁砲台跡の現況。「日本築城史」にもない新しいことが解った発見らしい。
高後崎の整備が進むと、牽牛崎は「Bクラス」になったのか。早くから「予備砲台」ではと考えられている。小型標石は残る。各砲台の詳しい場所や内容に不明なところがあるが、現地写真とも資料をそのまま載せる。
高橋輝吉氏稿 1 「砲台地の変化を見た」
明治中頃より重要地区、特に軍港地区を、陸軍砲兵隊にて守る。大砲は大丈夫か。海軍も大砲は有る。下関を初め○秘の名のもとに、佐世保、長崎と要塞地帯の整備が進んだ。佐世保では、前岳堡塁砲台、牽牛崎砲台、高後崎砲台と3ヶ所が有った。
前岳はどうも変だ。軍道に35本の小型標石有り。牽牛崎は後で。下関はドイツ陸軍が指導する。日本よりドイツ、イギリス等へ学んだ人がいたのか。海軍も大砲の事なら進んでいる。日本築城部の本を基に砲台地を造った。出来上がってこれで大丈夫と思った軍部がいたのか。土地は有るけれども大砲は、大砲は。
高後崎地区の砲台は、場所が重要地区なので、それよりもこの地区、土地は昔、昔より地滑り地区。大きな岩石がなく、土と中位の石で造りやすくしていたが、元々は海岸近くまで地滑りか。亀甲石垣にて止めたのか。木が大きくなり止めたのか。馬川方面にも一回行ってみます。第三の門柱が?。高後崎が良くなったので、牽牛崎は早く御免だ。小型標石は残る。
高橋輝吉氏稿 2 「前岳堡塁砲台」
前岳砲台地はどうも変だ。前々から思っていたが、その一端の話を地元古老から聞けた。元は50m位上にあり、平らな所だったらしい。新しい小標石を下の方にて発見(軍道)。陸、八六。陸、防。3本目は後日行きます。若しかすれば重砲隊の練兵場代用だったかも。一時期、春日町にも有り。
大砲訓練としては、春日町の町中ではどうも。山有り長い道有りの所が良いと思う。兵は大変ですよ。ビッコ引きで、いくら一回り大きい兵隊さんでも、小型大砲は分解して運ぶ。襟の色を見よ。黄色だよ。花形兵かなぁ。後日、古老の方と会えますかなぁ。
20m位下の右の方に壕有り。間口2m、中は広いです。窓みたいな所有り。小型大砲ならば、中で講義できます。弾置き所有り。弾薬庫は川原田に有り。運ぶのは車、人。60m下の方に有り。
元は平らな原野だったそうな。50m位は積上げ、砲台地を造ったのかなぁ。(古老の話として。80才位の方)
高橋輝吉氏稿 3 「砲兵隊員と弾薬庫」
私は見た。ビッコ引きを見た。相浦小に砲兵隊が来たのを。空砲一発、大きな音でした。万朶の桜か、襟の色。砲兵は黄色、歩兵は赤色。散兵戦の花形砲兵です。砲兵は一回り大きな方が多いです。ビッコ引き引きします。小型砲身は担ぐのです。車輪も。
元砲兵の方から聴き取りです。弾薬庫は初めは八幡谷に有ったそうです。神社ができたので、高梨町の川原田へ移ったそうです。60m手前に弾薬運ぶ車と人。トンネル先に、陸軍省要塞第五號が現在も有ります。元兵士の方より聴き取りです。現在は町中です。私は以上の事を存じ、本とか書に書いて有りませんから。
春日町にも一時期、練兵場有り。これも変だと前々より思っていた。前岳にはもう一度行ってみます。軍道には陸と刻した標石35本位有ります。此の軍道は別な事を願えてみました。後で。