今市宿の石畳  大分市大字今市 ( 大分県 )

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今市宿の石畳  大分市大字今市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。私は由布市狭間町から県道
690号と県道412号により豊後街道を行った。

今市宿の石畳 いまいち
大分市 <肥後街道> 石畳道 長660m,道幅8.5m(うち、中央の敷石幅2.1m) 文禄3(1594)以降 県史跡 市教委/WEB 保存状態良好/石畳の両側の土道は舗装 中川秀成が文禄3の岡城主として移封されてから、岡領の宿場として整備したというのが県の『歴史の道調査報告書 肥後街道』のスタンス。その際に、上・下町からなる一筋道の宿場、中央の両町境で道路をクランク状に曲げ、境の上に「火防藪床」と呼ばれる竹林を設けたとある。庄屋・伝兵衛の祖先が整備した説や、加藤清正の関与説などが流布しているが、ここでは中川氏の関与を正説としたい。石畳の敷設は当初からの可能性もあるし、「元禄四年ゟ往還道床ニ成」という記載に意味があるとすれば元禄4(1691)以降かもしれない。 1 A

現地説明板は、次のとおり。

今市宿場
今市は七瀬川と芹川との間の台地(標高450m)にできた集落で、古くからの物資の集散地でした。文禄3年(1594)中川秀成が岡藩7万石の領主として入部。今市も岡薄の領地になりました。中川氏はやがて野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになったのです。今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596〜1615)のことで、庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発したと伝えられています。岡蒲のお茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになり、延享元年(1744)に廃止されました。肥後薄の御茶屋は、寛永10年(1633)下町に移りました。宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があり、警護に当たっていました。

参勤交代道路(今市石畳)
道幅8.5mの中央部に幅2.1m、長さ660mにわたり、全面平石が敷き詰められている。更に6ヶ所、家屋に出入りするための敷石もある。
この石畳は豊後鶴崎と肥後熊本を結ふ肥後(豊後)往還の一部であり、江戸時代、肥後藩細川氏の参勤交代道路として利用されていた。(豊後中川氏も一時期利用していたようである。)
道路の両側には町屋が立ち並び、今市町(同藩の宿場)としてにぎわっていた。ここの宿場は一筋通の町並だったため、宿場の中が見通されるのを防ぐ意味から、町の中央を鉤の手に二度曲げている。
県内に現存する石畳道は少なく、貴重な交通遺跡として、昭和47年に県史跡に指定された。