長崎の古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

●明治初期の新地と出島
横浜で発行された写真貼り付け英字新聞『ザ・ファー・イースト』の1871(明治4)年7月1日号に掲載された長崎の新地(右側)と出島(中央左側)の写真です。この新聞は文明開化が進む明治の初め、貼り付けた写真で日本各地を紹介し、写真による新聞報道の始まりとなりました。
撮影ポイントは十人町の丘の上で、左の木造家屋は江戸時代の遠見番所の名残です。…さらに、左端の大きな屋根の右横には梅香崎橋が確認できます。…

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」。超高精細画像による解説は、次のとおり。

日本で発行された英字新聞”The Far East”紙の明治4年(1871)7月1日号に掲載された写真で、撮影時期もその直前とみてよい。十人町の丘上から出島と新地、旧市街を望んでいる。いずれも明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋、中島川河口部の長さ27間にも及ぶ新大橋、新地と梅香崎を結ぶ梅香崎橋がみえる。すべて木製の桁橋である。これらによって出島から大浦にかけての海岸通りは連結されて、そこには要所に街灯が立ち、居留地のバンド景観を形成し始めたのであった。出島のみならず、築町の地先(新大橋の左手)や新地の海側にも、和様折衷的な初期洋館が建てられていたのがわかる。しかし旧市街地には、出島の上の樹叢の中に旧奉行所西役所時代の家屋が残るのをはじめとして、在来の日本家屋が立ち並ぶばかりで、まだ洋館は一切みられない。遠く立山の裾には本蓮寺や福済寺の甍が見え、左手には湾入した長崎港が望まれる。

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1539
刊行本の解説は間違いないようであるが、撮影ポイントが「十人町の丘の上」だけでは具体的でない。「梅香崎橋」がすぐ左下に見えるのに、以前のデータベースは、「梅香崎の山手(中新町)からのアングル」と説明していた。

「十人町」の町名由来となった「遠見番跡」説明板は、現在、「みさき道」沿いに活水大学手前の路地に建てられている。「ナガジン」発見!長崎の歩き方によると、今の梅崎郵便局から坂段を登った十人町天満神社付近の「常盤崎」という一帯も考えられるので、研究をお願いしたい。
古写真の撮影地は、この神社あたり(ながさき出島道路オランダ坂トンネル入口上部)からではないだろうか。金比羅神社の尾根に山頂が覗かないこの下段あたりからとなる。

最近のヤフオク!で「横浜写真と呼ばれた明治期の小判手彩色写真」があった。これが手前右下に「梅香崎橋」を写している。解説は「梅香崎の高台から出島が撮影しています。出島の弧を描く海岸線と建物がよく判り…」とある。やはり十人町天満神社あたりからの撮影と思われる。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h188842799
目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」と同じ写真の目録番号:5901「新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)」も、解説を合わせてもらいたい。

最後の刊行本紹介「連載「長崎今昔」を再編 出版」は、朝日新聞長崎版2014年7月18日の記事。