「地理局測点」に関わるHPとトピック
「長崎の珍しい標石」の項で、魚見岳と天門峰山頂岩にある明治九年「地理局測点」を上の写真のとおり紹介した。長崎にも明治初期の貴重な測量標石があったのである。
標石の存在は、京都市上西勝也氏(近代測量史研究)も関心を寄せられ、平成18年2月長崎を来訪、現地へ案内した。同氏のHPで紹介されるとともに、現在も追跡の研究が行われている。(小画像は上西氏HPから)
次はこの標石の関連。いろいろHPを調べていると、珍しいことが書いてある。つくば市の国土地理院「地図と測量の科学館」構内に同じような「地理局測点」の標石が展示されている。地上標には必ず地中標石の正式な測点があるらしい。まだ掘って探していない。
また、AGC(日本山岳会の同好会「山岳地理クラブ」)のHPトピックによると、明治15年地理局設置の三角点標石が、2001年群馬の山中で見つかり話題となった。
歴史を語る明治の遺産として、長崎の標石も大切にしたい。
「初期の測量標石など」 上西勝也氏HP”三角点の探訪”から
いままで、三角点といえば1888年(明治21)に参謀本部陸地測量部ができ本格的な近代測量を開始してからのものを調べていました。ときたま、それ以前の参謀本部測量局や内務省時代の地図や点の記を見かけることはありましたが、実際の標石については見たこともなく、また手持ちの文献も少ない状態でした。
ところが、つくばの国土地理院の構内に明治初期と思われる標石が展示してあるのを見つけました。展示といっても置いてあるだけで説明はありません。この機会に初期の標石について暇をみて調べてみようと思い、つぎに実際に設置してある測點の現地を探訪しました。
つくば国土地理院構内の展示品 (略)
内務省地理寮測点
日本の近代測量は工部省測量司が1871年(明治4)に外国人の指導で東京府下に13点の三角点を設置しました。その後、開拓使が北海道の約50点の観測を実施しました。ついで内務省地理寮が1874年に開設され測量司の仕事を引き継ぎ1875年関八州(かんはっしゅう関東八州のこと)大三角測量をしその後全国の国境の測量を始めました。1882年には三角点の100点の選定が終わり1884年からは陸軍参謀本部測量局がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。
内務省地理寮測点の標石は大きく上面は一辺30センチメートルの正方形、高さは60センチメートル程度あります。盤石と思われるものが、その横にありました。
後日、国土地理院にお聞きしますと、まず盤石と思われるものは盤石でなく測点上面を保護するための「ふた」(蓋石 がいせき)であろうということがわかりました。さて、いつ頃どこで何の目的に使われたかなのですが現在の国土地理院には、これに関する記録、文献などは、まったくないそうです。なにしろ明治以降、何度も職制が変わったり、庁舎が分散、移転したり移転時の空襲などあり、しかたがありません。ただ言い伝えとしては、つぎのようです。
安政年間に締結された開国条約に「外国人遊歩規定」というのがあり横浜の居留地にいる外国人は行動を規制されました。規定を明確にするため精密な測量がおこなわれましたが現在の国土地理院に展示してあるのは、この測量標石らしいということです。なお、これと同様な標石は小田原市、藤沢市、平塚市で見つかっています。国土地理院の展示品は全部地上に露出していますが実際の標石は上面だけ残し地中に埋まっています。
内務省地理局測点
内務省地理局は1877年(明治10)地理寮から引き継いだ組織です。この標石は細長く高さは80センチメートル位です。2個ありましたが、どちらも同じ刻字がされています。地理局の標石には地上標と地中標石があり右の写真は地上標と思われます。〔国土地理院:測図・地図百年史 1970〕どのように使用したかは定かではありませんが正式な測点は地中標石でそれと対になつている地上標は測点の位置を表しているだけと思われます。内務省地理局の標石頭部の十字には銀の象嵌を施したものもあったそうです。
几号 水準点(きごうすいじゅんてん) (略)
二等水準点 (略)
移設された展示品
うえで説明した展示品は2002年(平成14)に再訪したときには「地図と測量の科学館」裏に移設され簡単な説明もありました。展示品は初期の測量標石以外に現行のものも一緒に埋設されていました。南から北へ(写真では左から右へ)四等三角点金属標、同標石、一等三角点標石、二等水準点標石(現行)、同(初期)、キロポスト併設水準点、一等水準点、几号水準点、内務省地理局測點(埋設)、同(横倒し)、内務省地理寮測点第壱号、同蓋石が並んでいます。元位置にあった一部は撤去標石置き場に移されています。
「三角点標石 あった! 群馬の山中で愛好家が発見」 AGCトピックから
地形図を作る際に用いられる三角測量を日本に本格的に導入するにあたって、明治15年(1882)、当時の内務省地理局が設置した三角点標石がこのほど群馬県の山中で確認された。設置当初の状態で見つかったのは全国でも初めてで、地図愛好者の間で話題を呼んでいる。
測量の歴史を語る明治の遺産
見つかった場所は、同県藤岡市と下仁田町の境界付近を走る御荷鉾スーパー林道から、1時間余り登った尾根稜線上。この標石を5年以上も探し続けてきた埼玉県深谷市の公務員、飯島仁さん(39)が先月確認した。
標石は御影石でできていて、四角すいの上部を切った踏み台のような形。高さ約40cm、上面は一辺が15cmの正方形で、一辺62cmの台座の石の上に設置されていた。側面に「原三角測點」「明治十五年十月」「内務省地理局」の文字が刻まれていた。
三角点は、地形図作成などに用いられる三角測量の基準点。国土地理院の地形図では三角形の記号で表示されている。日本で本格的な三角測量が始まった明治10年代に内務省が、関東、中部地方に約百点を選び出し、標石を埋めた。その後、測量事業を引き継いだ陸軍が、現在も使われている「一等三角点」を設けることになり、古い内務省の三角点標石はほとんど抜き取られ処分された。
この内務省三角点標石はこれまでも、米山(新潟県)と雲取山(東京都)の2ヶ所で見つかっている。しかし、いずれも設置当初の位置とは異なると推定されている。
これに対し、今回の標石は「白髪岩(シラガイワ)の上に設けられた」という当時の記録どおりの場所で見つかり、設置当初の位置で確認された初めてのケースとなった。
陸軍の測量では、白髪岩は別の場所に一等三角点が設置された経緯がある。このため、以前から地図愛好者たちが「内務省の標石はどこかに埋まっているのでは」と注目、飯島さんは記録を頼りに「標石探し」を続けていた。
元国土地理院測量管理官で「訪ねてみたい地図測量史跡」などの著書のある山岡光治さんは「日本の測量技術を伝える貴重な遺産として末永く保存してほしい」と話している。
(2001/7/29読売新聞より)