横綱丸山権太左衛門の墓 長崎市本河内1丁目
長崎市本河内1丁目の本河内郷墓地内に、横綱「丸山権太左衛門の墓」がある。
陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。現在公認されている横綱では3代目に数えられるが、順序が逆で「2代目」とする説もある。1749年の長崎巡業時にの際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている。37歳没。(ウィキペディア)
詳しくは、HP「相撲の歴史ナビ」丸山権太左衛門を参照。
http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/maruyamagontazaemon.htm
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」66頁の説明は次のとおり。
99 故名力士之碑(所在地:本河内町40番地付近)
旧長崎街道沿のこの付近には3代横綱丸山権太左衛門をはじめ玉井茂三次、一二三孫兵衛、雲早山森之助、峰松庄之助などの墓碑が散在していたが、現在、この地に集められている。同碑は昭和3年(1928)に池田國太郎等本河内の有志によって建立されたが、「故名力士之碑」は春日野部屋を興した横綱栃木山守也が揮毫した。
次は長崎県立図書館郷土資料で、偶然見つけた「東洋日の出新聞」大正13年3月4日記事。珍しいから紹介する。
本河内に初代横綱丸山の墓 東京相撲で誰も詣った者は無い
長崎市本河内一ノ瀬蛍茶屋の上に旧街道の坂を左に登る事二丁余りすると路傍に丸山権太左衛門の墓がある事は余り識る人はない。横綱の初代は明石志賀の助とも云うが、此の人の事は小説以外には何もないそうであるが丸山横綱の事は諸書にある。
丸山が長崎で死んだのは、元文2年10月9日とある。爾来横綱も10数代出来て居る角力道も明治大正に至りて盛大を極めて居るが、丸山が死んだ200余年角道の流を汲む力士連が長崎に来たのは数限りないのに1人として草花1本捧げたものはあるまいと云う事である。蛍茶屋の主人に聞いて見ると『ハイありますが誠に荒れ果てたものです』と云って居る。
丸山は奥州仙台の産で享保の17年に力士になった。身の丈6尺3寸体量が43貫掌の長さ7寸9分あった頭上にコブがあったので丸山と名づけたとある。角力は下手だが力が強く立合には両手で叩ハネ飛ばす計りで誰1人之を防ぐものがなかったと云ふ。寛延2年8月に横綱を許されたが一度も使はぬ内に46歳で死んだと云ふ事である。大阪で懸桶の竹を捻ぢ折るのを主人が記念に夫れで花筒を造って丸山筒と名付けて家宝として伝えたとの事である。
仙台は昔から大男を出すが今長崎に来て居る近き内に横綱となる出羽ヶ嶽も仙台の産と云ふ。先の大砲も夫れである。中の島の角力も本日は休みだから栃木山、常の花両横綱始め力士連が墓詣をする様な談もある(神水生投)