宇木会調査  「有喜砲台」の記録

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宇木会調査  「有喜砲台」の記録

橘湾沿岸の戦争遺跡の「有喜砲台」は別項12で簡単に紹介しているが、この調査が契機となり地元歴史研究会「宇木会」(藤原九三人会長)は、当時の砲台従事者で現在存命されている早田さん(諌早市長田町在住)を招き話を聞くなどして調査を進め、平成19年5月、下記のとおり会員木下重則氏がまとめられた稿「沈黙の砲台」を送っていただいている。
砲台と機関砲陣地跡3箇所の現地写真が添えられ、上から説明は次のとおり。有喜砲台の詳細を調査された貴重な資料となり、ここに紹介しておく。
① 日下(くさげ)の砲台跡は、私たちが行った場所のすぐ上の広いスペースが目指す場所で、結局崩落しているので、見た目にはさっぱりわからない状態です。
② 七曲の機関砲陣地跡は、荒れはてて雑木が倒れたりして、一見したところここに機関砲を据えたのかと疑われる程でしたが、石を積んで平らにしようとした痕跡は見られました。
③ 小豆畑の同跡は、それらしき穴があって、雰囲気は感じられました。

木下重則氏(宇木会)稿  「沈 黙 の 砲 台」

先の太平洋戦争末期、南洋の島伝いに攻め上がってきた米軍は、日本本土絶対防衛圏のサイパン・テニアンを陥入れ、続いてわが国最南端の領土硫黄島をも占領した。
この頃、わが海軍は本土決戦の避け得べからざる状況を認め、橘湾も敵の上陸予想地点の一つとして遅ればせながらその防備に着手した。湾奥部の千々石海岸は白砂青松の波静かな海岸で、敵上陸の可能性は極めて高いところである。野母半島の樺島と天草の富岡との線を結ぶ湾の入り口を突破して上陸地点に迫る敵艦艇に対し、湾を抱くように鶴翼に延びる海岸線からこれを砲撃して上陸部隊を漸滅し、地上戦を有利に導こうという作戦思想である。
九州の海域を護るわが海軍佐世保鎮守府では、渡辺中佐を指揮官として第102分隊を編成、指揮本部を茂木に置いてこれを橘湾の守備に当らせた。
砲台は千々石断層添いに茂木、江の浦、有喜、愛野、千々石などに配置し特に有明海の西の出入り口に当たる口の津の早崎の瀬戸では、岩戸山に大口径の長距離砲(15cm砲)を構えて万全を期すこととした。
昭和20年4月、米軍はいよいよ沖縄に殺到し、同6月日本軍は多大な犠牲を強いられながらついに沖縄本島南端の摩文仁の丘に追い詰められ、軍司令官、牛島中将は自決、わが軍の組織的抵抗はこれを以って終わりを告げた。沖縄も敵の手に落ちたのである。
いよいよ本土空襲は熾烈となりB29は毎日定期便のようにやって来て、日本各地の爆撃を繰り返した。
この頃、わが海軍は昼夜突貫工事で橘湾岸各砲台の構築にあたり、ようやくそれは完成に近づきつつあった。わが郷土有喜の砲台では、日下(くさげ)の断崖に横穴を掘って掩体となし、口径12cm、仰角15度の平射砲を以って完成の日を迎えた。
有喜ではこのほかに、敵の上陸用舟艇を標的とした小口径の機関砲陣地が、七曲と小豆畑(いずれも字名)に構築されつつあったがこれらは完成を見ずして終戦を迎えたようである。
有喜の砲台については昭和19年秋、海軍によって計画され、その建設は当時小野島の海軍練習航空隊の中にあった施設部隊が担当し、運用は第102分隊の古賀清平(せいべえ)特務中尉以下12名の将兵がこれに当たった。
この12名のうち、現在存命が確認されたのは諌早市長田町在住の早田さんただ一人であり、「宇木会」の面々は先日、この早田さんにお会いして話を聞く機会を得た。以下は今なお早田さんの記憶に残る60数年前の想い出の一端である。
昭和19年5月、早田少年は18歳で海軍を志願、佐世保の相浦海兵団に入団して新兵訓練を受けた。訓練が終了したその年の秋、渡辺中佐指揮下の第102分隊に配属され、更に古賀特務中尉が指揮を取る有喜(日下)砲台担当12名のうちの一員となった。
当初、この班は松里町の横尾徳太郎氏宅を拠点とし、毎日日下の砲台に通って任務に就いていたがその後しばらくして拠点を森山村上井牟田名の篤農家の家に移した。
指揮官、古賀清平中尉は水兵から叩き上げたいわゆる海軍の裏も表も知り尽くした豪の者で、佐世保鎮守府内でも「鬼の清平」とおそれられた存在であり、雷が落ちるのは朝飯前、ビンタが飛ぶのは毎日のことであった。
砲台弾庫には実弾300発の備蓄があったものの実弾射撃の訓練をするでもなし、毎日砲を磨いたり手入れをしたりするほかはあまり多忙ということはなかった。
食料は不自由な時代で副食こそ贅沢することはなかったが主食の米だけは陸軍に比ぶれば不自由はなかった。
古賀中尉は名うての酒豪で、酒のあるうちは機嫌がよかったが、酒が切れると皆はビリビリしていた。
又同中尉は佐賀県の人で、はじめ古賀家に生まれ後に福岡家の養子となり福岡姓となったがしばらくして又古賀家にもどって古賀姓となった、といういきさつがある。
終戦当日のことはあまりはっきり覚えていないがみんな虚脱してような精神状態であったと思う。部隊はすぐ復員とはいかずそのまま特命の状態であった。その年の9月になると占領軍が来て砲の尾栓を外して持ち去り、砲は機能を失った。その後占領軍の命令とかで枢要な部品や弾薬は、当時島原鉄道の小野駅と森山駅の中間に日本軍が臨時にこしらえていた「天神」という駅の引込み線に貨車を配置してその中に収納し、担当の兵は皆これが警備にあたっていた。
同じ年の秋も深まった11月頃その貨車は命により長崎の出島にあった長崎港駅に回送し、砲の部品や弾薬は近くの岸壁から大型船に積み込んだがその後いずれかへ運び去ったということである。
このようなことがあって間もなく復員の命令が来てお互いはそれぞれの郷里に向かったが帰りには各人宛白米5升の配分があり、これを唯一の土産として砲台を後にした。この時早田さんは19歳、階級は1等水兵であった。
その頃古賀清平中尉は井牟田の女性と結婚していたが戦後どうなったかは分からない。諌早の永昌の一郭で居酒屋を経営していたとか、風の便りに聞いたことはあったが早田さんに会うことはなかったという。
終戦間際に12名の強者が死守せんとした12cm平射砲の砲台跡は、今たずねても一見してそれと分からない程の雑木林の中にひっそり眠っている。         (木下重則)