長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5174 興福寺鐘撞堂
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号: 5174 興福寺鐘撞(つき)堂
〔画像解説〕
興福寺鐘鼓楼を撮影した、明治後期から大正期(1890〜1920)の手彩色の絵葉書。寛文3年
(1663)焼失、元禄4年(1691)再建享保15年(1730)重修されている。現在長崎県指定文化財。
目録番号: 764 興福寺の鐘楼(1)
〔画像解説〕
ベアトによる1866年3月の書き込み。興福寺の仏殿右側前面の鐘楼。寛永9年創建、火災後元禄4年再興、享保15年以降4回修繕された木造、本瓦、入母屋2層づくり。高欄付き、千鳥破風を有する。
■ 確認結果
目録番号: 5174「興福寺鐘撞(つき)堂」は、絵葉書のタイトルがそうなのかも知れないが、 関連作品の目録番号:764などのとおり「興福寺の鐘楼」、または建物の正しい名称「興福寺鐘鼓楼」で良いのではないか。
HP「長崎県の文化財」による解説は、次のとおり。
興福寺鐘鼓楼 有形文化財(県指定)
よみがな こうふくじしょうころう
指定年月日 1962年03月28日
所在地 長崎市寺町64(興福寺)
所有者 興福寺
最寄り駅 路面電車・バス「公会堂前」下車 徒歩7分
寛文3年(1663)市中の大火で,寺内殿堂みな類焼のあと,この鐘鼓楼は山門の翌年元禄4年(1691)に再建された。のち享保15年(1730)重修。これは棟札によれば高木弥源太・同久治平が棟梁であった。この以後も数次にわたり修理が加えられた。重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置いたが,梵鐘は戦時中に供出して今はない。階下は禅堂に使用された。上層には四方に花頭窓(かとうまど)を開いている。これは梵鐘・太鼓の音の開放のためである。周囲に高欄をめぐらす。軒回りは彫刻彩色で装飾され,元禄期の華やかさを感じさせるが,他の木部は朱丹塗り。建物の外観は上下の比例がアンバランスで,あまり佳良とは言えない。屋根の隅鬼瓦は,北面つまり寺外へ向かって鬼面,南面の内向きは大黒天像という珍しい例。福は内,鬼は外の意味と解してよかろう。日本人の工夫である。