関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

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関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

「長崎談叢19輯」の引用文では、4月4日帰路「黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る」とあり、一行が3人であることがわかった。同行の2人は誰だれか。これは北海道陸別町の協力によって、同町資料館に保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが手に入り、「長崎談叢」が省略した4月3日記録の記事冒頭に「昨日ヨリ佐々木ト長嶺氏ヲ案内トシテ相約シテ三崎行ヲ催ス」とあったことによって、佐々木氏と長嶺氏なる人物と特定された。

佐々木氏とは、佐藤泰然が開いた佐倉順天堂の同じ門下生「佐々木東洋」で、師の養継子佐藤舜海と同行して関寛斎も長崎医学伝習所に入塾し、一緒に学んでいたのである。これは年表記事に名前があったことにより推定された。(京都で日本最初に腑分けしたのは「山脇東洋」。時代はまだ前)

一方、長嶺氏は不明で、「案内人」とあったため長崎の人かと、先の余録でふれていた。やはり、肥前平戸人、松浦肥前守臣「長嶺圭朔」であることがわかった。これは兵庫県芦屋市に住む平幸治氏(「肥前国 深堀の歴史」の著者)が、国会図書館などで調査してくださったお蔭である。同氏から受けた教示は次のとおり。(平成17年10月3日付書簡)

A 脇岬に行った3人のメンバーについて
日記の「佐々木」は研究リポートのご指摘のとおり、佐々木東洋であろうと思います。「長嶺氏」は平戸の長嶺圭朔ではないでしょうか。
医学伝習所の塾頭松本良順が記録した入塾者名簿「登録人名小記」が、鈴木要吾著「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」という本に載っておりました。それによれば、寛斎が医学伝習所にいたころ、もうひとり豊後日田の佐々木玄綱という人がいたようですが、この人は文久元年夏入塾のようですから三人が脇岬に行った文久元年4月にはまだいなかったと思われますし(勿論当時の旧暦では4月は夏ですが、入塾早々では一緒に旅する可能性は低いでしょう)、ここはやはり佐倉順天堂から一緒で伝習所入塾も同時期の佐々木東洋で間違いないでしょう。
次に、「案内トシテ」一緒に行った「長嶺氏」については、上記の「登録人名小記」に「肥前平戸人 松浦肥前守臣 長嶺圭朔」とある長嶺圭朔だと思います。平戸の人なら野母半島を案内することができそうです。「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」の著者鈴木要吾氏も、佐々木東洋と長嶺圭朔と書いています(同著58頁)。「長崎在学日記」には長嶺の記事が他所にも出てきます(文久元年3月26日条ほか)。長嶺圭朔の事蹟などはまだ調べておりません。わかったらまたご報告します。

なお、平戸出身のこの長嶺圭朔は、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」を調べると三巻95頁に名前があり、小説中に登場している。長嶺圭朔の事蹟などは、当方からも平戸市松浦資料館へ照会したが、現在のところまだ不明。御典医であった。平戸市内に今も「長嶺」姓の系譜となる方が3軒ほどあると聞いている。

(注)年表は関寛斎資料館冊子から。