「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点
「新長崎市史」第二巻「近世編」が3月30日発行された。広報ながさき4月号に刊行を大々的に載せ、書店発売を知らせているが、肝心の長崎市施設、地区公民館図書室などに4月10日になっても蔵書がなかった。
市史編さん室と広報広聴課へ苦情を言い、やっと4月19日、地元の公民館へ配本があり借りることができた。市長はこんな事態を知っているのだろうか。意気込みのわりには、おかしなことだった。
私の関心は、今回の刊行で新しく取り上げるとあった第4章「天領・大村藩・佐賀藩領の村々と街道」第4節「長崎の街道」にあった。
「6 御崎道」は、366〜369頁に掲載されている。
平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」や、平成20年3月発行された長崎伝習所報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」の問題点は、すでに指摘している。
今回の「新長崎市史」第二巻「近世編」における「御崎道」の記述も、問題点が多い。せっかくの新市史刊行だから、もう少し信頼性がある研究をお願いしたかった。
全文は掲載できないので、疑問の箇所のみ引用し、私の考察を説明する。
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図を、ちょうど本ブログ上で作成したところである。参照してもらい今後の研究に役立ててほしい。
1 368頁左段 「御崎道は、峠からダイヤランド2丁目を経由して磯道町、三和町、毛井首町、鶴見台、江川町などを経由、深堀町へ至った」
毛井首町、鶴見台経由は、明治以降発展しできた道で、遠回りとなりあまり考えられない。長崎往還を草住町へ向かい、江川町から深堀手前の峠(鳥越)を越して、深堀町へ至った。
2 368頁右段 「御崎道は、蚊焼から秋葉山に上り、高浜に下ったが、秋葉山(標高254m)の山頂には火の神秋葉神が祀られている」
御崎道は、秋葉山山頂は通らない。中腹を行く。誤解されかねない記述だろう。
3 368頁右段 「また、『寛斎日記』にも「東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり(略)」とあるように〔27〕」
末尾の注〔27〕は、林郁彦稿「維新前後に於ける長崎の学生生活」『長崎談叢 19輯』長崎史談会 1937 21頁。この文献は、関寛斎『長崎在学日記』原本からすると、誤字が多い。引用資料としないようお願いしたい。
4 368頁右段 「また、前掲の道塚は、蚊焼から分岐して岳路を通り以下宿から上って来る道との合流点であり、途中には「みさき道」「今魚町」と刻まれた道塚が残されている」
「前掲の道塚」とは、徳道三叉路の里程道塚。以下宿からここには上がらない。「途中には」とは、岳路の道塚を説明されているが、黒浜から尻喰坂を越し以下宿に下り、南谷を上がって、里程道塚からの道と合流、延命水へ至った。
5 368頁右段 「ほかの御崎道のコースとしては、二ノ岳付近から高浜と脇岬の間の殿隠山、遠見山、堂山峠を経て観音寺に至るコースがあり」
殿隠山、遠見山、堂山峠間の尾根コースは、明治地図でも道の連続がない。街道とは考えられない。郡境・村境の見誤りだろう。(343頁の写4−17、345頁の写4−18の「肥前一国絵図」など参照。道は赤線である)
岬木場から来た道は、殿隠山鞍部で高浜から上がって来た道と合流、脇岬へそのまま下る。
6 368頁右段 「殿隠山コースには、道塚が2本残されている。1本には「みさき道 今魚町」「上川原道」、もう1本には「右 御崎道」「左 川原道」とそれぞれ刻まれている」
野母崎ゴルフ場裏門内の道塚2本を説明されているが、この道塚は殿隠山コースには向かわない。高浜へ下るコースの道塚である。ゴルフ場内の下道に、今魚町道塚がもう1本、確かにあったことを記録と記憶により確認している。
7 368頁右段 「また、観音寺から、山越えして野母に至る、観音道と呼ばれるコースがあった。このコースには元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。なお、野母から舟便を利用、長崎に行くコースもあった」
方向が逆。記述に一工夫してほしい。「また、脇岬海岸にも元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。これは野母まで舟便や歩いて来られたが、ここから観音寺まで十丁の山道にかかる「観音道」を示す道塚である。長崎へ舟便で帰るときや海が荒れた日にも利用された」と説明した方が良い。
8 なお、354頁に「図4−6 長崎の主な街道図」が掲載されている。「(注)御崎道には諸説があるが、ここでは今魚町の道塚のある道について記述した」とし、緑線により「御崎道」、黄緑線により「観音道」のルートを表示している。
1〜7で見たとおり、三和町「三和町郷土誌」昭和61年発行もそうだったが、問題点が多いルート図である。諸説があるならなおさら、関係史料・古地図類を良く研究し、実地踏査のうえ、これらは正しく公表してほしい。