「みさき道」のコースなどに関する考察 <その2>から
研究レポート第2集『江戸期の「みさき道」−医学生関寛斎日記の推定ルート』は、平成18年4月刊行した。その中からコースの判断にふれた10〜11頁の記述は次のとおり。考察はまったく私見である、関係資料と読み合わせて判断していただきたい。
A 総括的なこと
1 「みさき道」の判断に、どのような文献と地図類があるか
今回の調査は、文久元年(1861)4月3日と4日にかけて、仲間3人で脇岬観音詣でに出かけた長崎医学伝習所生関寛斎の「長崎在学日記」(昭和13年「長崎談叢19輯」の引用文は一部誤りがあることは指摘した)をもとに、彼の記述をなるべく現地や文献で検証することとし、今も残る道塚12本を手がかりに彼ら一行の歩いたルートを推定し、当時の「みさき道」はどうだったか調査したものである。
参考とした関係資料は前レポートに掲げたが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」 佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」 長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕 同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」 同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」 同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」 三和中央公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政6年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。
2 「みさき道」の調査で、これら関係資料はどのような利点があったか
次のような利点があり、「みさき道」の判断をする上で役立った。
(1)晩年の地北海道陸別町資料館が保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが、同町の協力によって手に入った。彼は一流の人で、記述は正確であった。
(2)③の佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村の地図は、彼ら一行が歩いた文久元年と同時期に作成され、正確かつ詳細な絵図であった。
(3)④の国土地理院旧版地図は、以前の旧図もあるが測量技術が格段に進歩し、陸軍陸地測量部が正確な地形と道を描いた地図であった。まだ車はなく街道が県道などで表れていた。
(4)今魚町が観音寺境内に天明4年(1784)「道塚五拾本」と刻んだ石柱を残し、街道要所に年代が前後した道塚12本が現存するのは、他街道に見られないことである。
(5)「三和町郷土誌」編さん諸資料に、長崎県立図書館蔵書の明治18年「西彼杵郡村誌」が載せられ、「道路」の項の記述があったので参考となった。
3 「長崎街道」の調査方法は、どんなだったか
「みさき道」の調査方法は、確固とした手法や経過を取っていない。やみくもに歩き街道の道の感じを掴み、資料・地図類が集まり次第、再考しながら積み重ねていったら、何とか結果が出た。街道調査の方法を、最初から最後まで知らなかった。
「長崎街道」の場合、どうだったか。レポート刊行後知ったが、三和公民館に大村史談会「大村史談」のバックナンバーが揃っていた。第50号に総合索引があり、平成3年3月発行第38号「北九州市の長崎街道(一)」に、松尾昌英氏の木屋橋〜小倉間の踏査記録があった。
これによると調査方法は次のとおりであった。
『今回の調査に当っては安永九年(1780)と文化九年(1812)の遠賀郡往還図、生保年間(1644−1647)の豊前六郡図(福岡県史資料第二輯附図)、及筑前國図(福岡県史資料第六輯)、元禄十四年筑前図(1701)(福岡県史資料第八輯)、伊能忠敬測量日記の内文化九年(1812)一月二十七日より二十九日迄の測量記録、明治二十年及明治三十一年より三十三年迄の大日本帝國陸地測量部の図面、昭和十年十月發行の八幡市地図、昭和十三年十一月發行の小倉市地図を参考資料として調査に当った。生保、元禄図及遠賀郡往還図と陸地測量部の図面を照合比較してみると道路の形態は殆んど一致している。又伊能忠敬の測量記録はそのルート上の町名、地名、測量の距離ともほヾ一致することがわかった。
そこで今回、現地調査に当っては陸地測量図を基に調査を進めることにしたのである。
長崎街道は長い歴史の中で幾多の変遷を経たであろうと思うが、陸測図は大体において江戸時代末期の長崎街道とほヾ一致するのではなかろうかと思っている。
将来江戸時代の正確な街道地図が発見された時点では当然修正しなければならない。』
結果的に私たちの「みさき道」の調査方法も、全く同じような史料・地図類を使ってコースを推定していたのである。