川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門 三和町郷土誌から
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊643〜644頁の記述は次のとおり。
川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門
川原の池を“竜池”という。ここの池は古くから大池・小池と言っていたようであるが、竜池とはいつごろから言われた呼称であろう。寛永(1624〜44)に創立の法音寺は竜池山法音寺というが、古くは河原山竜池院であったという。とにかくそのころから竜池という呼称は用いられていたものであろう。
長崎奉行牛込忠左衛門は奉行として珍らしく川原を訪れている。延宝六年(1678)のことである。
同年二月には野母と樺島、四月に川原に行き池を見分している。奉行の巡検とあって、迎える村々では大事であったに違いない。ここでも今村・森両家をはじめ有志の人々に迎えられたと思われる。いろいろと下にもおかぬ歓待のもてなしであったろうが特に池を眺めて竜女の伝説など興味深く聴いたことは想像される。長崎でも“鳴滝”や“梅香崎”などの雅名を与える牛込奉行であるから“竜池”という言葉を聴いて大へん喜んだことがうかがえる。同奉行はかねてより長崎聖堂の南部草寿、大通詞彭城東閣や林道栄などの学者や文人墨客と深く交わり、学芸に秀でていた。
牛込奉行は十か年長崎奉行としてその職にあり、その間の事蹟としては、内にあっては、
延宝元年 ○倉田水樋(飲料・防火用水)造成の本五島町大名倉田氏の「水樋掛」世襲の許可
○立山役所を設置
延宝四年 ○立山に聖堂を再興(寛文大火で焼失のもの)
また、巡検などは、
延宝二年 ○野母樺島へ捕鯨の見分
延宝四年 ○島原侯と各所を巡視 ○深堀領主鍋島志摩の鹿狩に参加
延宝六年 ○野母、樺島と川原の池を検分
など、大へん多角的な行動をしている。牛込奉行の墓は東京新宿宗参寺にある。
寛文(1661〜73)以降も歴代奉行は随時近村へ迎えられ出向くこともあったようだが記録されているものは少ない。しかし、将軍交替時の幕府巡検使はともかく、文化(1804〜18)ごろからは幕末まで異国船取締りの面もあり、毎年のように野母など巡見を行い、港内警備を留意している。 (編 集 子)
(注) この資料のとおり、各村や遠見番所・台場などの巡見は、幕府側、佐賀藩とも随時あっているようであるが、経路の記録はない。