ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年
「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。みろくやHP ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号「みさき道は、抜け荷の道?」2003年3月。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35頁ですでに紹介済み。
みろくや HP 「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年3月
ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号
長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28Kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。
鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、おおむね1泊2日の行程で行き来していました。中には朝早いうちに出発して参詣を済ませ、夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。
みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町〜二本松〜戸町中学校〜ダイヤランド〜土井首郵便局〜深堀町〜大籠町〜三和町(西彼杵郡)〜蚊焼峠〜黒岳〜野母崎町殿隠山〜堂山峠〜観音寺というルートです。(分カル人ハカナリノ長崎通)
現在のみさき道は、車道になっているところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。
みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。(通勤ガ大変ダネ)
この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。みさき道はそういったところに勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。
またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、それでも魅力は大きかったらしく、あとを絶ちませんでした。
抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。(遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス)
◎参考とした本と資料
「わが町の歴史散歩(1)」(熊弘人著) 「長崎ぶらり散歩」(原田博二著) 「白帆注進」(旗先好紀・江越弘人著) 「第65回みろくや長崎食文化講座〜みさき道って何?〜」(講師 中島 勇)
(注) みろくやHP「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」は、気のきいた長崎歴史コラム。ただ、この「みさき道は、抜け荷の道?」は、参考とした本と資料に一部、疑問が多い。
「みさき道」のルートや密貿易との関連は、コラム筆者自身で正しく研究してほしかった。