脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年
「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。
脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年 5〜10頁
〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺 709年行基菩薩によって建立される。
仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』 肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬
1 観音寺の文化財
ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など
2 観音寺外で見る文化財、史跡
ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」
〔8〕交通機関
明治16年(1883年) 長崎—野母航路開始される(三山汽船)
年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬—長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母—脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
この頃、長崎に行くには野母—長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
(当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
昭和18年(1943年) 県道、野母—長崎間開通する。
昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止—野母間の運行を開始して野母—脇岬線と連絡する。
昭和37年(1962年) 茂里町—脇岬間に延長される。
(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
野母商船の長崎—野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)