長崎外の古写真考 目録番号:4600 浦 賀

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4600 浦 賀

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4600 浦 賀

■ 確認結果

目録番号:4600「浦賀」は、写真左下に”URAGA”とある。画像解説がないが、写っている寺は、浦賀湾の景色から横須賀市西浦賀の「東福寺」と思われる。

現在の東福寺の展望と明治地形図は、HP「まちあるきの考古学|浦賀」から。
現在の東福寺の写真は、HP「黒船写真館 西浦賀散歩」から。同の横須賀市ホームページより引用文は次のとおり。

東福寺(延命山・曹洞宗太玄派)

このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になりました。江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家 酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。

江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋治兵衛の回船が上方から荷物を積んで浦賀に 向かっている時に、時化にあい、船が沈みそうなりました。船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに 船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。
船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に観音像を安置しました。この観音菩薩は三浦三十三観音の十三番札所になっています。かつて観音堂脇に湧いていた水は「甘露水」といわれた良い水でした。