長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5737 顕彰碑
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:5737 顕彰碑
■ 確認結果
目録番号:5737「顕彰碑」は、「撮影者: 徳島:立木信造」「撮影地域: 徳島」の作品。碑文の大きな横文字に「山河襟帯」とあるのは、間違いない。
三省堂 大辞林によると、さんが-きんたい 【山河襟帯】とは、「山が襟(えり)のように囲んでそびえ、川が帯のように巡って流れ、自然の要害をなしていること」
平安京は794年に桓武天皇が遷都した都。南北5.7km、東西4.7kmの大きさであったと言われる。遷都の際に、以下のような詔が出された。
「此地や山河襟帯の形成、四神擁護の霊地にして帝王の都を定むるに適良す」「此国は山河襟帯にして自然に城をなす。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為す。子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京という」
桓武天皇の詔によりもともと山城国を形容する言葉としてできた四字熟語だが、嘉永6年
(1853)10月2日、長州藩士・吉田松陰が京都に滞在中、孝明天皇の時局に対する御深憂を梁川星巌から聞き、深く感激して次の詩を作った。
奉拝鳳闕詩「山河襟帯自然の城、東来日として神京を憶はざるなし、…(以下略)…」
京都市左京区岡崎公園の京都府立図書館の前には、明治41年(1906)、松陰没後50年を記念して、この詩碑が建立されている。
同詩碑の写真は、HP”みんカラ 不楽是如何〜史跡めぐりドライブ〜”から。
吉田松陰年表に、徳島との関わりは記していない。目録番号:5737「顕彰碑」の現在の画像が見当らない。徳島に同碑があったとすると、徳島の地形を京都のように見立て、徳島の景勝地に建てられた顕彰碑だろうか。
撮影者が徳島のため、撮影地域を即「徳島」とするには、少し不思議な碑文である。古写真の詳しい碑文が読めたら、撮影地域を解明できるかも知れない。