大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  2  (10) 奥浦の金山跡

奥浦部落の広瀬神社の登り口から、雪浦ダムへ約100m程行った「やなば」という道路傍に、人が立っても出入りが出来るほどの坑道がある。この坑内に溜まっている水は、どんな旱魃の時でも、その水位が変らないといわれており、またその深さはどのくらいあるか見当がつかないという。この坑跡が、かつてここから金を採掘したといわれる奥浦の金山跡である。
この奥浦金山は、町内の長畠にある岩山(タカの巣)の金山とともに、寛永7年(1630)に、大村藩主喜前(よしあき)が藩の経済力を確保する目的で、豊臣秀吉の生涯の雄図であった文禄・慶長の役が終って朝鮮から帰ってから、朝鮮各地の金山を参考にして、寛永4年(1627)に、大串(西彼町)を中心として着手した金山開発の内の1つであった。
この金山採掘については、当時大村藩の家老職であった大村彦右衛門が、寛永7年に京都から深江屋助右衛門、田中助兵衛の2人を招き、大串金山を採掘させた同じこの年に、雪浦金山の開鉱を図って採鉱させたといわれる。
しかし、わずか1年たらずで中止していることから、さしたる鉱脈も発見できなかったものと思われる。…

写真  3〜  6  (11) 松島の狼煙場跡・遠見番所跡

松島の狼煙場は、標高218mの遠見岳の頂上に設けられ、文化6年(1809)大村藩主純昌の代から始められた。この狼煙場は、長崎異変の際に、神浦の大野岳からの火を受継ぎ、狼煙をあげて村中に異変を知らせ、更にこの火を隣村の多以良、七釜、太田和へと伝えた。

松島の遠見番所は、安政5年(1858)に、大村藩主純熙が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく、狼煙場の遠見岳頂上に設けた。

写真  7〜  8  (12) 松島炭鉱跡とその変遷

松島を一周すると、松島炭坑の全盛時代を物語るボタ山や、赤レンガの廃屋に、焼山、仁崎に残る水没犠牲者の弔魂碑や供養塔が、かつての大惨事を思い起こさせる。
郷村記によると、松島の石炭山の歴史の始まりは、天明元年(1782)とあり、五平大石の発見から約200年後のことである。…
明治18年になって、三菱合資会社が竪坑を掘り採炭を始めたが、出水多量のため採算がとれず、明治21年に中止していたものを、明治38年、佐賀銀行の創始者古賀善兵衛がこれを買収して事業に乗り出し、明治39年に第1坑、引き続いて第2、第3坑と開坑した。
大正2年(1913)に松島炭坑株式会社がこれを買収し、大正3年に第4坑の開坑に着手したが、大正5年に第2坑が浸水、翌大正6年には第4坑が完成したものの、大正8年に第1坑が水没した。それでも第4坑の完成により、出炭量も年間40万トンにも達し、大正10年には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えた。釜浦の海岸通りや、対岸の板浦が、夜の訪れとともに弦歌で賑わったのもこの頃である。…
時代のすう勢はとどめがたく、約180年間にわたる変遷と盛衰の歴史を残し、昭和38年、石炭の島に終止符を打つことになった。

写真  9〜 13  (13) 高帆山の狼煙場跡

多以良の高帆山は、本村の西北端にある火受山とともに聳立する、海抜232mの山で、頂上には狼煙場跡がある。この狼煙場は、文化6年(1809)に、大村藩主純昌の代から始まったといわれ、長崎異変の際、松島の遠見岳の火を受継ぎ、狼煙をあげて村内に異変を知らせ、更にこの火を隣村の七釜、太田和へと伝えた。
一説には火受山が当時の狼煙場であったとも伝えられる。

写真 14〜 19  (14) 多以良の岩倉神社

多以良内郷字高尾の高台に、権現岩と呼ばれる巨岩がそそり立っているが、この岩は、高さ約33m、周囲約30mといわれる円筒形の奇岩で、岩上には樹木が生えている。この岩の根本に、祭神天照大神を奉祀した岩倉神社がある。
当岩倉神社は、寛文5年(1665)に創建され、寛政7年(1795)に社殿が建立された…
なお、多以良内郷字江里にある現在の社殿は、明治38年(1905)12月に、拝殿として建立された… (大瀬戸町郷土誌 本町の神社175〜176頁から)