長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5310 稲佐海岸
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル: 長崎湾水の浦
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治初期の写真である。目録番号1206(整理番号26-25)と同じ場所のものである。この写真に長崎市街地が撮影されているために場所の特定ができた。入り江に浮かぶ船に、人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。目録番号1206(整理番号26-25)の写真にも岬の先にある風格ある屋敷が写されている。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。
■ 確認結果
撮影場所の正しくは、現在の丸尾町公園西隅にあった波止場の入江である。旭町商店街通り沿い横の川に架かっている「黄金橋」あたりの海岸で、当時は稲佐崎と丸尾山に囲まれ、入江はイサバ船などの格好の停泊地になっていた。
「長崎湾水の浦」としていたタイトルが指摘により「稲佐海岸」と訂正されたが、超高精細画像のタイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままとなっている。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654
現在のこのあたりは埋め立てられ、旭町・丸尾町・大鳥町・平戸小屋町・江の浦町が昔の入江に沿ったように境を接している。水の浦はまだ飽の浦側の離れた海岸である。
訂正された解説で「平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したもの」と説明しているが、当時そう呼ばれたのか、具体的に現在の町名とともに場所を示し説明してほしい。
平戸小屋は町名となったとおり、江戸時代は平戸藩屋敷があった所で、この入江一帯の歴史は古い。さて「外国人墓地」だが、「稲佐悟真寺国際墓地」というとおり、公有地でなく、寺の歴代住職によって守られてきたという珍しい歴史を持つ。昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎らしい特性の国際墓地である。
慶長7年(1602)唐人墓が最初に造られ中国人墓地となり、次に出島オランダ商館のオランダ人のためオランダ人墓地が造られた。それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際、病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。その後もポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人が葬られている。(「ナガジン」発見!長崎の歩き方から)
画像説明には「稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった」とあるが、「稲佐地区は、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。外国人墓地も早くから造られた」としないと、意味が逆に取られ違うのではないか。