「ふるさと」の古写真考 P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)
〔写真説明〕
慶応2年麹屋町の池島正助氏が私財で再築した。昭和62年中島川の改修工事のために石橋はつけかえられたが、石柱、石欄干は旧材を使用した。昭和56年の水害で再築されている。高麗橋の奥に伊勢宮がある。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果
「高麗橋」は、中島川にそそぐ一ノ瀬川の下流域、伊勢宮神社前の銭屋川に架かる石橋。昭和62年3月に鉄筋コンクリート橋に架け替えられている。
昭和57年の長崎大水害にも耐えた石橋は、河川改修のため昭和60年に解体し、平成5年に西山ダム下の河川公園内に移築、復元されている。河川公園内の現地説明板は以下のとおり。
古写真の方の説明文はわかりにくいし、現地説明板と一部、内容が違う。

豊臣秀吉の朝鮮の役後、長崎に移住した朝鮮高麗の人たちは、最初現在の鍛冶屋町あたりに住み、高麗町といった。後に現在の伊勢町に移され、新高麗町となったことから、橋の名前は「高麗橋」となったといわれる。

高 麗 橋 こうらいばし  長崎市指定有形文化財(昭和46年10月21日指定)
この橋は、もと、中島川上流部の伊勢町、八幡町間に架けられていた石造アーチ橋である。承応元年(1652年)明国人によって創架されたと伝え、慶応2年(1866年)に拡幅改架された。昭和57年7月の大水害後の河川改修のため、昭和60年に解体し、平成5年3月、現在地に移築復元した。移築にあたっては、アーチ石等の主要部は旧材を用いたが、川幅が広がったため端部には石材を補足し、また失われていた高欄も復旧した。