日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

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日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(5)は、界の風景・史跡。まず界1丁目。2丁目は次へ。

高城神社入口を示す石塔、神社へ登る途中から、NTTドコモ日見中継所と神社、高城大権現の境内と祠、新兵大菩薩・徳嶌太郎社、高城大権現の上部竹林のある石塚(8基が確認できた)、岩這薬師堂、阿弥陀堂、日見継ぎ場跡、同地から三国屋橋を望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の21〜39頁による説明は次のとおり。

写真  1〜    18−1 高城大権現の説明中、高城神社入口を示す石塔
慶応4年(1868) 高城大権現 辰2月建立 世話人12名 石工 仙三郎。
馬川と高城川の交わる川沿いにある。(旧長崎街道沿いの橋脇) 土台部はそのままだが、上部は昭和57年7月23日の長崎大水害で流されてしまった。

写真  4〜    18−1 高城大権現(たかしろさん)
馬川から分かれて高城川の砂防ダムから登ったところで高城山中腹・NTTドコモ日見中継所アンテナ上。建立 慶応4年2月 山口地区には河内神社があったので、坂下、岩這地区が中心になり、川内中で建立したということである。昔は社殿があったが、老朽化して危険になったので取り払った。 
日見峠にある地震石神神社にも同じ高城大権現が祀っている。…高城山周辺には、多くの塚があった。…昔の方が無念の内に亡くなった方の霊を慰める為に塚を建てられた…
『いくさの神様であり、日清、日露戦争から太平洋戦争まで、地元のみならず、長崎市内からお参りが多かった。…
深堀軍が網場に上陸し諫早領に攻め込んだのに対し、諫早藩に龍造寺軍が援軍しての戦いが行われた。旧長崎街道周辺にはその戦いの戦死者の塚が点々と在ったが、ほとんど見られなくなった。深堀軍は後退して中腹からきれいな湧き水があった…高城山に砦を築いた。竜造寺軍は城山(今の日見やすらぎ荘の上の森田屋前あたり)に布陣…してにらみ合った。
高城山中腹や山頂には、その戦の時に作られたと思われる砦跡に石垣が残っているがいまでは埋もれてしまってほとんど見ることはできない。近頃はないが山芋掘りに山に入って脇差しや鐙(あぶみ)などを掘り出す人もいた。昭和初期までは、高城山から十郎を経て深堀に通じる連絡道路として利用していたと思われる立派な山道があったが、今ではほとんど判らなくなってしまっているとのことである。』 寄稿 松尾 勝氏

写真  6     18−2 新兵大菩薩・徳嶌太郎社
高城大権現の祠の横。石の祠(菊の紋)。正面 新兵大菩薩 嶌太郎社…。由緒沿革 不明。

写真  7〜    18−3 石塚
高城大権現の祠が在るところの上部。石組みの祠が数箇所ある。馬の鐙、兜や刀などが出土したところに、石を積んで祠をつくり供養している。

写真  9〜    20 岩這(いわばい)薬師堂(はつつき観音)
旧長崎街道と明治車道の交点。如意輪観音菩薩。長崎西国第6番札所。観音様が片手を頬に当て、ちょうど歯が痛いのをおさえているように見えるところから歯痛観音(はつつきかんのん)の名がついた。葉が痛む時には、おまいりに行っていた。

写真 13〜    30 阿弥陀堂
旧長崎街道脇・三国屋橋から長崎側に進み突き当たって直角に曲がるところ。阿弥陀如来。いつの頃からかは、不明だが、旧宿名、向組の有志でお祭をしてきたといわれている。堂がこの場所にあるのは、墓地全体をお守りしているものであろう。社殿前にある石の蓮台は、葬儀のとき、お棺(丸棺)を載せて読経をし、埋葬(土葬)するときに、使われたものであると言うことであるが、今は使われていない。平成6年(1994)12月再建改築。

写真 15〜    31 継場跡(つぎばあと)
旧長崎街道三国屋橋を経て長崎側に1分・現田川歯科医院。地方より長崎へ搬入する荷、又長崎より地方へ搬出する荷の中継ぎをする場所で、駕籠(かご)かきや運搬する人夫たちが常に待機していた。また旅人が休憩するところでもあった。