観音信仰と脇岬観音寺

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観音信仰と脇岬観音寺

原田博二氏稿「観音信仰と御崎街道」三和町郷土誌昭和61年から

観音寺は古くは仁和寺の末寺で肥御崎と称され、『元享釈書』にも記述されているように、観音信仰の一大霊場として大変著名であった。
観音信仰というのは、その名のように観音菩薩に対する信仰であるが、平安時代の末期からは末法思想の流行とあいまって、来世信仰・浄土教信仰が発達、観音信仰も来世救済の信仰へと変貌し、地蔵とともに引路菩薩として地獄抜苦・大悲代受苦の菩薩として仰がれた。さらに、勧進聖らによって多くの観音霊場が生まれ、清水寺や長谷寺が各地に広がるとともに、熊野や日光を補陀落山に擬する風習も流行、各地に熊野三十三度詣や三十三観音や西国三十三番の設定などが盛んにおこなわれた。江戸時代になると、各地に三十三所や六観音、または七観音などが盛んに設定され、民衆の行楽の風潮とあいまって、大変な賑わいを呈した。観音の縁日を十八日とする風習は、承和元年(834)、宮中の仁寿殿では毎月十八日観音供をおこなったことにちなむものといわれる。(略)
観音寺に現在でも伝えられている絵画類や多くの仏具類、境内の石造物などのほとんどは、江戸時代の長崎の人達によって寄進されたものであるが、このことからも、江戸時代に実際にこの寺を支えたものは、長崎の人達による観音信仰であったということがよくわかるのである。