古写真に残る石橋風景 (7)矢上の番所橋
国道34号線により東長崎の番所橋バス停まで行く。旧長崎街道の道が国道沿いにあり、中尾川に架かる国道の橋から1つ上流に行くと、この橋が街道の「番所橋」である。
東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り26〜27頁による説明は次のとおり。
大正初期の番所橋古写真は巻頭グラビアから(田中町織田武人氏所蔵)。番所の見取図は5頁、眼鏡橋の図は26頁から。
現在の橋は、現地説明板にあるとおり、昭和61年(1986)10月の架設で、由緒ある如く、擬宝珠の親柱になっている。第四代となる。
20.番 所 橋
矢上駅の西端、田の浦川の北岸近くに番所をおき、諫早からの役人がいて一々厳重な取調べをした上で、長崎に伺いをたて、許可があって初めて通ることができる。この田の浦川の橋が番所橋で、橋のたもとには、頑丈なカンヌキをした扉があり、その両側に柵をめぐらして取締まったものである。これほどに大事なところであるので、鍋島閑叟公時代、1838年(天保9年)美しいメガネ橋が架けられた。
第一代 欄干式両眼鏡橋五合円型、番所橋。1838年(天保9年)冬架設。…
第二代 欄干式片目鏡五合円、明治橋と改称。1872年(明治5年)冬架。…
第三代 鉄筋コンクリート、番所橋。1923年(大正12年)10月架。…
日本地図をはじめて作り上げた伊能忠敬は、1812年(文化9年)11月22日に、番所橋を通り測量している。
測量日記によると「長崎街道御料所日見村、佐賀領矢上村界より初、矢上村枝鳥合場、枝五次郎、枝東望、12町9間1尺。目鑑橋7間、枝矢上村駅問屋場、2町26間…」とある。この「目鑑橋」は、眼鏡橋と思われる。その後1867年(慶応3年)6月の大洪水のため破損し修復を計画していたが明治を迎えた。
1872年(明治5年)架設され、この頃は「輪橋」として記録が見られる。この輪橋の形は、やや形としては変形をしている。破損した橋の材を用いて修復された跡が見られる。その後、1922年(大正11年)の大地震で失われた。