高鉾島の正体不明な台座石
長崎港口の無人島「高鉾島」は、長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書(追加 その一)平成5年の、(六、台場、番所)「4、高鉾島台場跡」に調査記録があり、この中にある記録を見つけた。
同会が高鉾島を平成4年11月調査したものだが、「(ア)地点山頂広場、長さ約8.5m、幅広いところで4m。何の為のものか不明であるがコンクリート台が築かれて」とあり、台の形状寸法図と写真が掲載されていた。
現物をぜひ確認したくなり、磯道松山氏に頼んで釣り船を出してもらい、江越先生・西山中尾氏とも4人で、平成18年12月高鉾島に上陸した。島内の山道は特別に荒れておらず、台場跡を見学しながら約25分で山頂広場にたどり着き、台座と対面した。
高さは約1.05m、上面に厚い石板が乗せられ縦76cm、横77cmあり、大きな長方形の溝と3つの穴が三角としてあった。コンクリート製でなく、台座とも硬い砂岩を組んで作られているようで、目地や長方形の一部に漆喰かモルタルが塗られている。高鉾島は殉教跡から台場・戦争と長い歴史があり、この台座が古いのか、新しいのか全然わからない。
どじょう会の記録だけではわからないことが多かった。長崎歴史文化博物館の史料によると、高鉾島にも明治九年「地理局測点」が海岸べりの平地と山頂広場の位置に2箇所設置されたこととなっている。もしかしたら、この測点台座ではないかと思って調査に行ったわけだが、正体不明な台座で史料・資料類、用途をなるべく当たっている。
祭祀・祠座・像座・砲座・測量・観測・灯火などいろいろ考えられる。この島は変遷が有りすぎたのだ。天門峰の測点岩も上面に小さな四角の彫りがあった。「長崎市史」によると天門峰には山頂の自然石の上に毎夜小さな灯火を灯し、船の航路の目印とした記述があるが、ほんとうの史実かわからない。
この間、立山三界萬霊塔横で忘れられたような石祠を見た。台座はやや小ぶりだが造りは似ている。案外、こんな単純な石祠だったということで高鉾島のも決着しそうだ。
最近になって、「高鉾島」のある重要さに気づいた。それは「海図」からである。地形図には載らないのでわからないが、「海図」では東経129度50分、そして北緯32度43分が高鉾島で交わっている。
高鉾島の構造物の結果はどうであれ、大正年間、長崎報時観測所が行なった経緯度観測や、水路部では毎年12ヵ所の経度を測定し海図を作成していたから、長崎高鉾島は、明治初期からこれら各種観測や測量の重要測点と目標地点となっていたことは、いろいろな記録からうかがえる。
(下2枚の写真は中尾氏画像)