対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

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対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。
厳原町の中心街、厳原川に下流に架かる「佐野屋橋」(写真1)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「佐野屋橋」の説明は次のとおり。

写真2は、対馬市役所横の「桜橋」。新橋の脇に橋名の昔の親柱だけが残されている。
写真3は、厳原町の中心街から矢立山を越したまったく反対の西海岸側となる久根田舎にある「銀山上神社参道橋」。今回、初めて見かけた。

写真  1   第 104 番   佐野屋橋(下橋)    厳原町今屋敷川端通り
大正6(1817)年      長さ 12.2m   幅員 6.2m(拡幅)
厳原本川の最も下流にあるので一名「下橋」ともいい、寛文年間の架橋で川のたもとに佐野屋という問屋があったので命名され、享保7年石の桁橋に改め、大正6年に倉成、藤野、小野三氏によってアーチ橋に架け替えられた。
佐野屋橋は拡幅改修されているので、橋の上からはアーチ橋であるとは思えない。上流の大手橋からも良くはわからず、有田橋からアーチの形が見えるのみ。

享保7年あるいは4年と過去紹介されていたが、このときは同じ石橋でも桁橋であったそうで、石造アーチ橋になったのは大正6年とのことです。
山口祐造氏が著書「石橋ものがたり」で拱矢5.0の扁平な橋は、とても江戸時代の橋とは考えにくいと述べられているが、やはり技術者の目は確かであった。

写真  2               桜     橋       厳原町国分
対馬市役所右横の金石川に架かる。新橋の脇に橋名の昔の親柱2本だけが残されている。

写真  3               銀山上神社参道橋   厳原町久根田舎
対馬下島の下部、西海岸側に久根田舎はある。椎根と豆酸間の県道24号線沿い、集落の北はずれに「銀山上神社」があり、県道から「御所橋」を渡って行く。
参道橋の架橋年は、近くに「大正五(?)年御幣祭記念」と刻んだ石碑が立ち、この頃のものではないだろうか。
煉瓦造アーチ石橋かと思ったが、中は平石を渡し、両脇の欄干部分のみ煉瓦アーチに築いていた。「石の島」対馬にしては、煉瓦も使った珍しい橋。
長さ3m、幅員3.5m(拡幅)ほど。下の小川は、コンクリート水路となっている。

「佐野屋橋」「桜橋」については、厳原町「厳原町誌」平成9年刊、第二編地誌124〜130頁「橋梁」の項の説明は次のとおり。

佐 野 屋 橋  厳原本川の最下流に架かった橋を佐野屋橋というのは、この橋のたとに佐野屋という海産物問屋が店舗を構えていたからである。東ノ浜から国分町に通じる渡河点にあり、寛文7年(1667)の架橋という。佐野屋の開祖は泉州佐野(大阪府泉佐野市)の商人五味氏といわれ、寛文の頃に問屋を開業、佐野船の世話をした。佐野船とは当時佐野から出漁してきた漁船団のことである。
当初の橋は木橋であったが、享保7年(1722)に石橋に架け替えられ、さらに大正6年(1917)、倉成綱作・藤野小十郎・小野久次郎らの出資により、アーチ式石橋に改造されたが、それも昭和55年(1980)に改修して舗装され、さらに平成4年(1992)再度拡幅改造された。

桜      橋  金石川の上流、金石屋方(府中金石城)の大手門前で、国分の奥里と、今屋敷の山下通りを結ぶ渡河点に架けられた橋である。城の大手に通じる石橋であったことから、築城時に架橋されたことは疑いなく、桜橋という名称も、屋形との関係を示唆しているようである。
現在、石橋は解体され、大きく拡幅されて、新橋に架け替えられた。