古写真に残る石橋風景 (1)日見の「三国屋橋」
日見宿は長崎街道25宿の一つ。長崎へ2里、矢上へ1里。長崎に近いため、宿泊者は少なく、人馬の継立場として栄えていたようだ。
日見宿に三国屋という酒屋があり、状持ち(飛脚)も勤めていた。三国屋主人(二代目)五郎七が、江戸からの書状を日見川の氾濫した中、書状を頭に巻き濁流を泳ぎ渡り、無事長崎代官所に届けた。
この行為を讃えた代官が、何か褒美をと五郎七に問うと「土地の者も旅人もこの川に橋がないので難儀しており、願いが叶えるなら、川に橋を架けてください」と申し出た。
代官はこの言葉に感動してアーチ型の石橋を架け、五郎七の屋号をとり「三国屋橋」と命名した(日見村史より)と伝えられている。日見宿は川を挟んで200mにあったようだ。
「日見の宿跡」史跡案内板は、現在、国道から網場道へ入り、右の宿町の方へ行ってすぐ「日見宿跡」バス停先のビル角にある。左折すると、ショッピングセンター前に「三国屋跡」があり、その先の日見川に新しい「三国屋橋」が架かる。
「三国屋跡」は近年まで同屋号の古店舗があったが、現在、更地となり近く2階建ワンルーム共同住宅が建つ公告があった。同地にあった説明板によると「三国屋橋」は、「昭和44年区画整理事業により架け替り、橋名だけが残っている」とのことである。
「三国屋橋」の古写真は2枚ある。
最初は、現在の「三国屋橋」脇に最近、設置されている長崎街道さるく説明板の中の写真から。
写真説明には「昭和五十九年三月重要文化財眼鏡橋保存修理工事報告書(災害復旧)」(長崎市教育委員会)撮影年月不詳とある。年月がまぎらわしく、アーチ石橋が撤去されたのはいつかわかりにくい。長崎大水害でなく、やはり昭和44年区画整理事業であろう。
次は、「長崎街道雑記 No.1」長崎街道雑記社平成16年刊の織田武人先生稿「5日見宿 三国屋橋」15〜17頁の資料から。
幕末〜明治10年頃上野彦馬撮影写真(東京国立博物館蔵)と、絵画は日見中学校50周年誌からの写である。
この稿によると、次の文献に日見の石橋の記録がある。「(4)の石橋は、(2)の記録により、天明四年(東浜町安川吉左衛門・今鍛冶屋町林田政五郎両名が架橋寄進を長崎代官に)願出、翌年天明五年(1785)に架設された事になる」と推論されている。
詳しくは「長崎街道雑記」の同稿を参照。
(1)日見村史より(上記内容)
(2)長崎代官手代控ー金井八郎備考録 第一巻より
往還筋并道造之事 日見宿石橋造立之義願候…天明四年十一月
(3)道中日記より 佐久間庸軒著 安政五年十二月十二日…宿中 石ノ太鼓橋有…
(4)長崎県内の橋調査による(明治十五年国道・県道架橋取調より) 宿名 石橋壱ヶ所 …天明五年四月掛カル