五島市の桁石橋 石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋
五島市に残る桁石橋の2橋。アーチ石橋の「石田城本丸眼鏡橋」は別項を参照。
「石田城(福江城)蹴出門の石橋」は、福江港ターミナルから「五島観光歴史資料館」の通りへ出て、外堀公園の通りを右回りして行くとある。左回りのときは、本丸眼鏡橋から心字池前を通り城外へ出る門が蹴出門である。
「岩川の石橋」は、福江小学校側から武家屋敷通りを抜け、城山町バス停から路地へ入る。または最教寺前の市道を通って行く。
HP「長崎県石橋を訪ねて 長崎の石の桁橋等」による説明は次のとおり。
写真 1 第K−050番 石田城蹴出門の石橋 五島市池田町
嘉永6(1857)年 長さ m 幅員 m スパン m
五島市の石田城の石橋と言えば、この橋が上げられる。本丸眼鏡橋と言っても五島市民でさえ知らない人が多い。かつての石田城の通用門に当たる蹴出門は、幾度かの改修は加えられたものの、江戸時代最後の城としての風格が有る。
慶長19(1614)年、江川城(現在の五島第一ホテル周辺)を焼失したため、寛永14(1637)年に石田陣屋を藩庁にした。盛成は海辺への築城に際し福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を弘化3(1846)年に建設した。幕末の嘉永2(1849)年、五島盛成の代に築城が認められ、最後の藩主である盛徳の代になった文久3(1863)年、ようやく念願であった居城を完成させた。
同時期に着手した松前城が僅か5年で完成したのに比べ、竣工までに14年の歳月を要したのは海城の特殊性もあったろうが、松前城はいわば国家事業として築城されたのに対し、一小藩の事業であったという財政上の理由が大きかったと思える。
写真 2 第K−048番 岩川(ゆわがわ)の石橋 五島市上大津町(城山・山崎)
岩川の湧水水場の石橋
年代は不詳では有るが、同形式の水場(かもん川)が永正4年(1507)に造られている。
長さ m 幅員 m スパン m
武家屋敷通りから脇道に入り善教寺の前にでる。そのまま市道を進むと左手下に水場が見える。今歩いている道の下から湧いている。その水は清浄で今でも飲めるという。岩川の水場だ。
島原の湧水の水場でも同じだが、飲用や炊事に使う水は上流側。橋の下流の水場は洗濯や雑用水に使われている。川底にも石張りが施され、橋もカッチリと組まれている。
20年ほど前に書かれた案内看板は判読しがたいが、藩政時代には入り江が、この近くまで迫り貿易船の用水としても使われたという。郡家真一氏が、昭和49年に発行した「五島物語」に寄れば、鎖国後も中国・朝鮮との密貿易が行われていた五島藩の歴史の一端が思い出される。