江戸期のみさき道 (帰路ほか)」カテゴリーアーカイブ

明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図

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明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図

現在、三和公民館ホールの中庭に展示されている「明治三十二年十一月建」「東 脇岬」「西 髙濱」などと刻みのある標石の、もともと建っていたところは、埋め立て前の川原小池の上手である。
明治18年「西彼杵郡村誌」の記録によると、川原村に記す「脇岬村路」の起点となり、「髙濱村路」と分岐する。標石がここに戦後まで建っていたことは、証言を得て地点を確認している。

「みさき道」本道の今魚町系でない、明治の標石となるが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、江戸期からあったと推測させる貴重な標石である。
安永2年(1773)、当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、この道と思われる道が描かれている。また、川原小池の脇を上っていることは、長崎名勝図絵「河原池」に描かれている。

脇岬のビーチロック 県指定天然記念物 

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脇岬のビーチロック 県指定天然記念物

関寛斎「長崎在学日記」に、文久元年(1861)4月4日朝、脇津の宿を出発し、近くの海にある棚瀬のビーチロックを見に行ったが、潮が満ちていて見られず、次の話を聞いたのみとある。
「往古蒙古の船此處に破變し化石となりて其木板帆柱の形を在す」

棚瀬は脇岬海水浴場の東南端に干潮時に見られる。日南海岸の鬼の洗濯岩と同じで、形成には石灰質すなわち珊瑚が関係し、日本ではあまり見られず、ここは国内で規模が大きく県指定天然記念物となっている。

蒙古襲来については、「野母崎町郷土誌」に次のような記述がある。
「弘安4(1281)年、蒙古襲来の時に、この円通寺から霊火が飛んで、南北に10里あまり連なり、陸に上ることができずにいるうちに暴風雨が吹いて船は沈没した。これらの船は折り重なって瀬になり、今でも残っているという話がある。(中略)
野母崎に残る話は、九州西方の海域が江南軍の進攻、退去の経路となっているので荒唐無稽と片付けるわけにはいかないので、言い伝えのとおり収録した。」