投稿者「misakimichi」のアーカイブ

寄田の底井樋  宇城市松橋町大野 ( 熊本県 )

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寄田の底井樋  宇城市松橋町大野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇城市役所東側の松橋高校を通り大野川に出ると、大野川改修改修記念公園があり、当時の「寄田の底井樋」石管は、ここに展示されている。寄田神社が対岸にある。
最初の通水に使用していた松の板材が、松橋郷土資料館に展示しているとあるが、これは訪ねていない。

寄田の底井樋 よっだ
宇城市 <浅川>/用水路 逆サイフォン式石管水路(凝灰岩) 長35m→3m以下 ,外寸0.96m×0.86m,内寸0.6m×0.5m 嘉永5(1852) 松橋町史p.927/現地解説板 移設・展示 施工:庄屋・松田喜七/轟泉水道の石管を参考にして造られた(継ぎ目に独自の充填剤) 3 C

現地説明板は、次のとおり。

寄田の底井樋とサイフォン
寄田の底井樋とは、旧浅川の川底を横断して、松橋高校側から対岸の寄田の方に通水する導水路のことで、東松崎への用水事業の最後の大事業として、石材を用いたサイフォン形式の水路で対岸に吹き上げる構造となっていた。
最初は松材の厚板を組んで通水したが、漏水や海水の混入もあって改築が必要となったことから、宇土市の轟水源を水源とする水道の石管を参考にし、石の継ぎ目の接着に苦心を重ね、寛永5年(1852)石材を用いた底井樋として通水した。この年は矢部町の通潤橋が完成する2年前のことであった。また、最初の通水に使用していた松の板材は、町立郷土資料館に展示している。
古保山付近で集められた水は、町文化財指定の穴井手(土揚げ場)を通って猫の迫溜池(御池)へ流れ込み旧大野川の久具堰で取水され、寄田の底井樋を通って東松崎地区を潤している。このように、これらの施設は、東松崎地区の住民の命を守る用水施設であり、昭和15年(1940)には東松崎住民が頌徳之碑を建立している。
松崎町郷土史研究会

当尾の道標  宇城市松橋町曲野 ( 熊本県 )

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当尾の道標  宇城市松橋町曲野

県道181号松橋町の東部、大鳥交差点手前から当尾小学校の方へ上がる。当尾原の四叉路から当尾小学校へ向かうと、学校手前のところに地蔵堂があり、新旧2本の道標があった。
ここは分岐道となっており、これから当尾山を越えて浦川内に出る「薩摩往還」の道と説明板があったが、道標の詳細は不明。

当尾の穴井手  宇城市松橋町曲野 ( 熊本県 )

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当尾の穴井手  宇城市松橋町曲野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道181号松橋町の東部、大鳥交差点手前から当尾小学校の方へ上がる。当尾原の四叉路手前の住宅地から畑道を左下の谷間へ下ると、「当尾の穴井手」がある。「猫の迫溜池」は訪ねなかった。
市HPの説明板はもう見当たらなかったが、当尾小学校の郷土学習に取り上げられており、場所はここと先生がわざわざ現地案内してくれた。

当尾の穴井手 とうのお
宇城市 素掘トンネル(水路) 長約600m 嘉永5(1852) 市史跡 市教委/現地解説板 保存状態良好 水源(猫の迫溜池)への取水隧道/途中6ヶ所の土揚用の堅穴 1 B

宇城市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

当尾の穴井手  

古保山外当尾の水田迫から、曲野御池の頭部にいたる畑台地の地下には延長500mにおよぶ通水トンネルがあります。普通は「穴井手」と呼ばれています。
天保10年(1839年)松橋新開が築造されたときその用水源である猫の迫溜池が築造されましたが、台地間に挟まれて流入河川もなく周囲の取水面積も狭いものでした。その水源を古保山地先の迫田に求めましたが、池と迫田の間には台地が横たわりそのままでは水の利用ができない状態でした。

そこで台地の下にトンネルを掘り溜池に水を導くことを考え、そのトンネルの線上に5カ所の朝顔形の穴をあけ泥揚げ用や井手浚工の時に利用しました。(現在は圃場整備で整地され2ヶ所となっている。)着想および測量の技術等当時の土木遺跡として貴重な存在です。
嘉永5年(1852年)溜池拡張工事の際に作られたとも伝えられますが、はっきりした記録はありません。

【詳細】
所在地 :宇城市松橋町古保山
駐車場 :なし

三由(みつよせ)橋  宇城市豊野町下郷 ( 熊本県 )

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三由(みつよせ)橋  宇城市豊野町下郷

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。県道32号豊野町下郷の現在の橋の横に架かる。

№119  三由(みつよせ)橋 (架設当初名:鬼迫川目鑑橋)

豊野町下郷
市重要文化財
小熊野川
橋長:20.95m  橋幅:上3.0m底3.05m  径間:12.6m  拱矢:4.1m
架設:文政13(1830)年
松橋から国道218号線を旧中央町方面へ向かい、アグリパーク豊野を過ぎて県道32号線へ入り、南下。約2Km先左手にあります。

三由橋
「この眼鏡橋は種山(東陽村)産名石工岩永三五郎の築造と伝えられ、文政13年(1830)に架けられた三五郎当時28才青年時代の作で九州の石橋文化を作り出す出世作の一つですばらしい哲学と芸術的価値を備えた貴重な文化財である。彼の偉業を永く称え我々の村づくりに哲学的な発想を促すため大切に愛護しましょう。」
昭和56年11月吉日 改修に当って  豊野村教育委員会

市 木 橋  宇城市豊野町下郷 ( 熊本県 )

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市 木 橋  宇城市豊野町下郷

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。県道32号豊野町下郷に案内標識があるが、すぐ途中の分岐の案内標識が逆方向から見えるように設置されており、注意して進む。

№122  市木橋

豊野町下郷
市指定重要文化財
谷口川
橋長:18m  橋幅:2.4m  水門径間:2.8m  水門高:2m  橋床高:5m
架橋:江戸末期
石工:不詳
平成5年7月復元
国道218号線から県道32号線を南下し、600mくらい進むと右手に案内標識(そこから先が分からないんですよ)。右折して集落の道との交叉点を左折、小川に沿って100mくらい先を右折、道なりに進むと案内板があります。

市木橋
「市木橋の製作者は不詳であるが、江戸時代末期に構築されたと推定されている。
幕末から明治にかけて、多くの壮麗な石造アーチ橋(眼鏡橋)が建造されたが、この橋は、それらと全く異なって、水門部が、数段の石桁を両側から順次に迫り出し持ち送りして、その上に長い石桁を渡して構成されている。
これは非常に珍しい技法であって、類例としては、平安橋(石造、山口県)が知られているのみである。
しかし、近年、橋床や水門の崩壊が著しくなったので、平成5年3月、復旧工事着工、同年7月、創建当時の姿に復元完成された。
この橋の大きさは、橋長18m、橋床幅員2.4m、水門径間2.8m、水門高2m、橋床高5mである。
橋梁構築の歴史を物語るこの貴重な文化財を、永く後世に伝えるため、皆様の深いご理解とご協力をお願い致します。」
平成5年7月  宇城市教育委員会

旧吹野石橋  宇城市小川町北海東吹野 ( 熊本県 )

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旧吹野石橋  宇城市小川町北海東吹野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。県道32号小川町北海東に「旧吹野石橋ここより100m」の案内標識がある。

№1,195  旧吹野石橋

小川町北海東吹野
橋長:11.5m  橋幅:1.8m
架設:安政4(1857)年
三反田橋から県道32号線へ戻り、700m北上。右手墓地の手前に「旧吹野石橋ここより100m」の標柱あり。それに従って小道を下っていくが、50m先分岐は左へ、さらに50m先に架かっています。

小川町南海東の道標  宇城市小川町南海東 ( 熊本県 )

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小川町南海東の道標  宇城市小川町南海東

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。宇城市小川町の東部、県道32号沿いに海東小学校はある。

小川町南海東の道標 おがわ、みなみかいとう
宇城市 海東小学校・前 石道標 高約1m 天保6(1835) 市教委 移設? (正面頂部)「是/ヨリ/右」、(正面)「…し上石堂の前より右井手筋ハ…/谷川を渡り十丁余山可”ちの道を…/より少しさき左りハ村ミちへ右ハ森下の…/八丁嶽…いふがんく川渡をこゑ五家庄…/釋加院への本道春く奈り/堂のまへ右ハかめ山左り手能/山辺のミちを釋加院と志連/伹本堂筋ハ谷川与り少しうへ石かきより一丁/通りぬけさこ畑の下手与り…手ハ筒田/小村を通り布まき□□を…□□□□/村里へのミち□□…」、(正面最下部)「大概道のり/志やかゐん にり/五ヶ庄 八り/かたし田 三り/こうさ 三り…/ともち 四り…/やべ 九り/ミふね 五り/…の庄 …」、(裏面頂部)「是/ヨリ/左」、(裏面)「…上谷川打飛より…の…/右ハ村ミちへ左りハ谷遠□道□か□□□二十丁余の□り/王らびのと云ふ小村を通り中山手永□白石野村/与り釋加院ミさかへの馬ミち春く□さ奈利/ミさかへの馬ミち□□□□寺のまへ/左り尓とりて谷川をこ□/伹谷川打飛渡り川遠ハ中山ミち尓て響野原と/云う古戰塲を通り堅志田町甲佐岩下町砥用原町/夫与り矢部濱町への往来□□□なり」/石神→八丁峠に至る案内/両面に一面に道順が詳しく刻字されており珍しい 2 B

峠の岩清水  宇城市小川町東海東 ( 熊本県 )

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峠の岩清水  宇城市小川町東海東

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。甲佐町から県道105号により宇城市小川町へ出た。小川町に入ったすぐ下りにあった難所 峠の白石野越「峠の石清水」。

峠の石清水

所在地  宇城市小川町東海東
利用案内 駐車場 約15台分  トイレ あり
解説   
隠れた名水「峠の岩清水」
こんなところにあります・・

小川町の東端に、美里町へ通じる標高300mの白石野越と呼ばれる峠があります。小川町の中心部からおよそ9Km、かつては長崎や鹿児島、遠くは異国とも交易があった港町として栄えた小川町と、矢部や五家庄などの九州の中央部とを往来する物資の重要な要衝となっていた峠です。その峠からおよそ500m下った小川町舞鴫(もうしぎ)地区蕨野(わらびの)に、「峠の岩清水」があります。標高265m、県道105号線の急カーブ脇にあり、花崗岩質の大きな岩盤の裂け目からこんこんと湧き出す清らかな水は、古くから地元では「出水さん」と呼ばれ、枯れることなくここを通る旅人ののどを潤わせてきました。昭和30年に発足した舞鴫地区住民でつくる「蕨野岩清水保存会」が、平成6年度に地下に浸透していた分をコンクリートで固定するなど周辺を整備しました。現在の湧水量は日量40t程度で、湧水を溜桝(ためます)にため、3本の水道管に流す工夫がしてあります。

「峠の岩清水」とは

峠一帯から出る水のうち、谷を一つ隔てた場所は石灰岩地帯で比較的水質が悪い硬水しか出ませんが、この「峠の岩清水」とその近くを流れる舞鴫川の水は軟水の水質です。これは、両者の水源や水脈が異なっているからで、近くをボーリングしても硬質の水しか出なかったそうです。「峠の岩清水」の場合は、断層によってできた岩盤の裂け目を流れてきており、、石灰岩地帯を通らずにわき出ているようです。中央構造線の近くで、断層も多くあるため、水源や水脈は特定できないようです。年間を通して水温は15度、お茶やコーヒーに用いると大変まろやかでおいしくなるとか、炊飯用にすればご飯がおいしくなるといった評判から、飲料用として地元住民は無論のこと、遠く県外からもポリタンクを持って清水を汲みに来る人が後を絶ちません。平成9年度には、「肥後の水資源愛護賞」を受け、毎月1日と15日は「水の愛護日」として保存会が清掃活動を行っています。駐車場も整備され、すぐ横には休憩所「峠の茶屋」や、公衆トイレを完備しています。

美観・見どころ

「峠の岩清水」に至るまでの蕨野の道沿いには、高く積み上げられた石垣や棚田があちこちに見られ、平成6年度には県農村景観コンクールで「美しき村賞」を受賞しました。この蕨野を含む舞鴫地区は80戸ほどの戸数ですが、住民活動が大変盛んなところで住民の手植えによる道路脇のヒガンバナは総延長5Kmにも及びます。真っ赤な花がさす9月には、清水を汲みに来る人影も一段とふえます。また、舞鴫地区には文殊菩薩を祭る文殊三名堂の一つ「舞鴫文殊堂」があり、西の太宰府として合格祈願に参拝する人も大変多い場所です。さらに、舞鴫地区を4Km程くだり、県道32号線を右折するとすぐに塔福寺が見えます。室町時代の元寇で活躍した竹崎季長の菩提寺であり「蒙古襲来絵詞」(もうこらいしゅうえことば)の模写が展示されています。

参考文献
『熊本の街道と峠』 熊本日日新聞社 1980
小川町史編纂委員会 『小川町史』 小川町 1979

和田内の刎  甲佐町田口 緑川 ( 熊本県 )

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和田内の刎  甲佐町田口 緑川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道38号を南東に辺場交差点まで行き、緑川の田口橋を渡る。このあたりが甲佐町田口の和田内で、堤防道路を下流側へ1.5km進む。
写真の竹林や木立のところに「和田内の刎」の石積み跡が残るが、今はブッシュ化して確認できない。この場所には以前に畑があり、地元の識者に現地案内してもらい私はやっとわかった。遠景の山並みも対比。

和田内の刎 わたうち
(上益城)甲佐町 緑川 石水制 江戸期? 町教委 放置保存→ブッシュ化 4 C

「和田内の刎」資料は次を参照。

・甲佐町教育委員会「緑川治水・利水関連遺跡」写真 (10年前位?)
・東海大学「緑川絵図の地理学的考察」 110頁  www.dobm.u-tokai.ac.jp/kiyou/ronbun2013/10_suzuki.pdf

沈み塘(しずみども)  甲佐町・美里町 緑川 ( 熊本県 )

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沈み塘(しずみども)  甲佐町・美里町 緑川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。甲佐小学校角から県道105号により緑川の「中甲橋」まで行く。橋の中央が甲佐町・美里町境。中央橋脚の下は中州状となっており、古い石積みが見える。これが「沈み塘(しずみども)」跡と、甲佐町教育委員会に聞いた。
やや上流に見える石積みは、国土交通省河川工事事務所の近年の工事らしい。 

沈み塘 しずみども
(上益城)甲佐町・美里町 緑川(中甲橋)下の中洲 石導流堤 (カマボコ型) 長160m, 幅最大25m 戦国末期〜江戸初期 町教委/大本照憲 下流側に自然堆積砂州が延びている 加藤清正の可能性/右岸側の轡塘と一体的に機能していたと推測される 2 B

沈み塘 しずみども
(上益城)美里町・甲佐町 緑川、津留川合流点下流側 石導流堤 (カマボコ型) 長160m, 最大幅25m 戦国末期〜江戸初期 甲佐町教育委員会/大本照憲 下流側に自然堆積砂州が延びている 加藤清正の可能性/緑川、津留川の合流部移動に伴う流水処理。右岸側の轡塘と一体的に機能していたと推測される 2 B