不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月 ( 大分県 )

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不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口方面へ向かう。東九州自動車道の高架下をくぐったすぐ先が望月で、国道左側に不欠塚の大きな石碑が見える。

不欠塚 ふかん
臼杵市 (望月) 石碑 高約190㎝ 天保9(1838) WEB/市教委 原位置 (正面)「不欠塚」/堤防の決壊を何とか喰い止めようとして「水の流れに従って水勢を和らげる」ような堤防を築いた疋田不欠の業績を称えて上望月村の村民が建立 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

不欠塚(ふかんづか)  所在 臼杵市大字望月

望月のバス停前から台地に連なる坂道のちょうど中ほど、望月の天満社の下にあたるところに、高さ約1.9mの石碑が一基建てられています。碑は、凝灰岩を角柱状に仕上げたもので、正面にあたる西側には「不欠塚」という文字が深彫りされています。それはまるで眼下に広がる田んぼとその中を東へ向かってゆるやかに流れる臼杵川を眺めているかのようです。
このあたりの田は、現在でこそ春には麦を、秋には稲を収穫する二毛作のできる、市内でも有数の実り多い肥沃な土地として知られていますが、江戸時代の中頃(十八世紀の初頭)までは、大雨が降るたびに洪水によって田が流され、何度も堤防を築いても、大雨のつど、堤が流れに直撃されて決壊し、田は土砂に埋まるという無残な姿をさらしていたそうです。この悲しい様子をいつも天満社の下で眺め、水が引くと田におりていろいろと観察をして、堤の崩壊の原因やその対策について考えていた人物がいました。その人の名は疋田不欠。ある時、不欠の家に泊った旅の僧と話すうちに、洪水に話が及び、不欠が「どう工夫しても堤が崩れる」と言うと、僧は「水は生き物、水に逆らってはどんな堤も破られます」と言い、翌日二人は荒らされた田を見て回りました。堤の切れ口と川の流れとの関係を話し合っている時、「水の流れに従って水勢をやわらげる」ことに気づいた不欠は早速、工夫して洪水にも崩れない堤防づくりを行ったということです。
彼は享保十四年(一七二九)に亡くなりましたが、その後天保九年(一八三八)に彼の業績をたたえ、上望月村の人たちがこの碑を建てました。