瀬高町長田の里塚石(三里) みやま市瀬高町長田
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道209号船小屋橋手前長田交差点から県道715号に入り八女市方面へ向かう。約500mほど進むと、右手に里塚石が見える。水上小学校の300mほど手前となる。
瀬高町長田の里塚石(三里) せたか、ながた
みやま市 <矢部街道> 一里石 高172㎝,幅28㎝,厚27㎝ 1630年代以降 WEB/瀬高町教育委員会 近接移設、修景 (正面)「三里」/柳河藩が田中家(60-20)から立花家に替わり、石高が32.5万石から10.9万石に分割縮小された後の地域に一里石があるため、俗に「田中吉政が、柳川城の辻の門を起点として矢部村まで一里ごとに立てさせた」というのは間違い/柳井市に残る2基の一里石以外は、刻字が「○里」のみとなり、書体も異なることから、より後年の建立の可能性もある 1 C
現地説明板は、次のとおり。
史跡「長田の三里石」 所在地:みやま市瀬高町長田
江戸時代の初期の慶長9(1604)年頃に筑後領主田中吉政は城下町下前の札の辻(現在、柳川市辻町)を基点として、黒木・矢部に至る矢部往還に一里(4km)ごとに石柱を設置させました。その配置は柳川から一里の久末、二里の中山、本郷と坂田を過ぎて三里の長田、小田を過ぎて四里の山下に通じ矢部の国境に至っていました。
特に、ここの石柱に三里と刻んでいることは、基点から12kmの距離と共に、長田村域(当時は、南長田村)であることも表わしています。
長田の三里石は、平成22年に長田湯辺田瀬高線(旧矢部往還)の歩道設置工事により南側3mの現在地に移築されました。昔時を思いめぐらせ、後世に引き継ぐうえからも歴史の証、貴重な史跡として大切に保存してまいりましょう。
平成22年4月1日 水上校区まちづくり協議会