「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か

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「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か

A 「古道」という道があったか

角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」867頁、「古道町」の項の記述は次のとおりである。
「(略)町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現磯道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。(略)昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は,江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことよるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。」

「古道」とは今の鹿尾川岸、古道町の人家のある所ではなく、その左上のダイヤランドの谷である。確かに文久元年佐賀藩が作製した古地図では、この谷の中流に「古道」と書かれてある。しかし、この谷の道は谷入口に道はなく、中流付近を遡行して途中で途切れ、右尾根に上り200.8m地点(清四郎岳とある)を通り、現在の小ヶ倉中あたりに出ると思われる。えらく遠回りのルートである。他につながる道はない。鹿尾川を上流へ遡行する道は考えられない。

もしかして「みさき道」の以前の「古道」があったのではないかと探した結果であるが、どうもそうではないようである。大辞典の記述とおり字古道の区域は広く、北へ字大道(現磯道町)の坂を登り山一つ越えた「小ヶ倉界」の谷間を指しとあり、そこはもうダイヤランド3・4丁目のバス終点左上「一本松」あたりも谷間上の尾根村境で字「古道」となる。字図を調べると、実際ここに古道町の字「古道」が団地に取り込まれず飛地のように今まだ少し残っている。

従って、そこは「みさき道」そのものであり、特別な古道が当時あったと思われないのである。字名が付けられた時期は、正保2年(1645)国絵図作製のため村境が定められた時と思われるが、なぜ「古道」という字名が付けられたかわからない。もし「古道」があったとしたら、それこそ往古にこの谷を上る沢道であったろうと、単純に考えてよいのかもしれない。

古地図の「古道」の位置とここに数軒の家があったのが間違いないとすると、角川書店大辞典の意味するものがなにか不明である。後の大道・渡し場・京太郎越えも疑問が多く、後の項で説明する。

B 字「大道」とは、どんな意味がありどの位置か

後の蚊焼西大道の道塚のところで、字名の由来については詳しくふれる。正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「大道」は「御崎道」に関係してつけられた字名と思われる。字「古道」の意味などは前に説明したが、字「大道」の位置は、字「古道」に続くダイヤランドバス終点下から土井首大山祗神社に下る、南岸の砲台が見え隠れした現在の磯道団地の上尾根の脇を行く街道あたりである。

故真鳥氏著書は、土井首地区の古道・地名を考察されているが、一番肝心なこのあたり「古道」「大道」と江川までの道が表れてないのが、非常に残念である。