長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6297 レッデリエン
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6297 レッデリエン
■ 確認結果
目録番号:6297「レッデリエン」は、「撮影地域:未詳」となっているが、椅子の形状から、これは長崎出島スタジオでの撮影である。
椅子については、次記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2479
長崎大学「日本古写真アルバム ボードインコレクションの解説」は、すでに次のとおりなっている。また、asahi.com マイタウン長崎による「長崎今昔」2010年9月4日記事は下記のとおり。
6297 レッデリエン Reddelien
椅子の形状から出島スタジオでの撮影と思われます。写されているのはE.レッデリエンです。ボードインとの付き合いが深かったオランダ人だと思われます。 -6297-
【長崎 今昔】 プロシア領事の部下 2010年09月04日
出島のスタジオで撮影されたG・レッデリエン=長崎大学付属図書館提供
《レッデリエン》
出島のスタジオで撮られたドイツの貿易会社クニッフラー商会の社員G・レッデリエンです。
1866年ごろにボードイン兄弟により撮影されました。弟のアルベルトと取引があったと推測されます。このいすは、出島スタジオで撮影されたボードイン兄弟や以前紹介したポルスブルックの写真にも登場しています。
デュッセルドルフ出身のルイス・クニッフラーは、59年に長崎港が開港されると、すぐ出島4番地でクニッフラー商会を設立。手広く貿易を手がけました。アルベルトが住むことになる3番地の領事館の隣です。当時、プロシアをはじめドイツ領諸国は開国条約の相手国でなかったため、オランダに保護を求めました。
中小国家が分立していたドイツの北部にあった大国プロシアは59年、外交官で政治家のフリードリヒ・A・G・オイレンブルク伯爵を東アジア遠征艦隊司令官兼全権公使に任命して日本に派遣し、61年に江戸で日普修好通商条約を成立させました。
横浜に進出してこれに協力したクニッフラーは、同年、長崎のプロシア副領事に、65年には領事に任命されます。レッデリエンはその部下で、67年には大浦の31A番地に住んでいた記録があります。
65年の暮れに帰国したクニッフラーに替わって、アメリカのウォルシュ商会に保護されたリチャード・リンダウが67年まで領事を務めました。以後70年までG・A・ショットラー、73年までマックス・ミリツァーと代理領事が続きます。4人とも長崎在住のドイツ人商人でした。
長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授が公開する英語のウェブサイト「長崎外国人居留地1859〜1941の人々・場所・風景」によると、A・レッデリエンがアメリカに保護されて商会を経営しているのですが、G・レッデリエンの兄弟ではなかったかと考えられます。
(長崎大学環境科学部教授 姫野 順一)