長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)園内の月見茶屋である。茶屋の有名な「ぼた餅」の包み紙によれば、創業は明治18年(1885)である。この写真は、開業直後の写真と思われ、左側のコウモリ傘を持った男性が当主であろうか。茶店で働く若い娘たちが揃いの前掛け姿で写されている。月見茶屋は現在も営業を続けている。茶屋の前の池横にはこれより古く開業していたピエル・ロチゆかりの呑港(どんこ)茶屋の建物も残っている。
また、茶屋の前には、現在ピエル・ロチの記念碑が建っている。ここから眺める彦山と豊前坊の間に出る月、特に中秋の名月は天下一品と言われる。江戸の狂歌師で幕臣である蜀山人こと「太田直次郎」は長崎奉行所勤務時代、一年近くの長崎暮らしで聞き覚えた長崎弁をたくみに使って、中秋の名月を「長崎の山から出づる月はよかこんげん月はえっとなかばい」と詠んでいる。諏訪神社境内にある月見茶屋の昔の建物。現在の建物にも写真の茶屋の趣が残っている。
目録番号:4908 諏訪公園月見茶屋(2)
目録番号:5527 諏訪公園月見茶屋(3)
〔画像解説〕
明治25年から30年(1892〜1897)頃の諏訪公園。南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している。東屋の緋毛氈(ひもうせん)に女性が二人座り、傍らに三人目の女性がポーズをとって立っている。手彩色の写真であり、座った女性やポーズをとった女性の着物の配色が美しい。冬枯れした諏訪公園の昼下がり。
目録番号:5289 諏訪神社境内の茶屋
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)は、明治8年(1874)内務省公布により「市民遊楽の地として、また外客の情を慰するため」旧諏訪神社宮司青木氏宅跡や安禅寺の境内を整備して長崎公園とした。公園内には、出島オランダ商館の医師ケンペル・ツンベリーの記念碑、シーボルト記念碑、写真の開祖上野彦馬の胸像など、内外の多くの先賢の記念碑が建てられている。明治大正年間には与謝野鉄幹・晶子夫妻、斉藤茂吉、若山牧水など日本を代表する文人墨客等多くの人々が訪れている。与謝野鉄幹は「長崎の円き港の青き水ナポリを見たる眼にも美し」の歌を残している。また、外国船が入港すると、車夫達は外国人を諏訪神社へ案内するのに「アイゴーユーゴースワテンプルテンセンゴー」のインスタント英語を使用したと言う。長崎市民には、諏訪神社と共に「お諏訪さん」といって親しまれている。写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?。
■ 確認結果
長崎公園(通称:諏訪公園)園内の「月見茶屋」とされる4作品。
まず、1枚目の目録番号: 991「諏訪公園月見茶屋(1)」。明治18年、開業直後の「月見茶屋」の写真と思われるのは、名物「ぼた餅」の暖簾や、建物の現在もこじんまりした造りなどから、間違いないようだ。
2枚目の目録番号:4908「諏訪公園月見茶屋(2)」。中央右側に写る大木を、現在も残るマキの木と見ると、現在の「月見茶屋」の位置とは少し合わないようである。
奥にもう少しクスノキの大木も写ると思われる。ただし、庭園テーブル・椅子には注視。
3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」。明治25年から30年頃の諏訪公園。「南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している」としている。
「月見茶屋」とされる建物は、明らかに2階建に写っている。「南側の山の形」とは、彦山ではなく、豊前坊左方の稜線と思われる。
4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」。超高精細画像の画像解説では、「写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?」としている。4枚目は、実は3枚目と同じ場所の拡大写真。東屋・人物は同じである。庭園テーブル・椅子は、2枚目と同じようである。
以上、「月見茶屋」とされる4作品を、並べて比較すると疑問点がある。現地で確認した限り、3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」と、4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」は、現在の月見茶屋の場所でなく、一段下の動物園にあった別の建物と東屋を写しているように感じた。現在の月見茶屋主人に聞いたが、昔の茶屋のことはわからなかった。
長崎大学において、詳しい検証をお願いしたい。