野母崎の散策 (7) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

野母崎の散策 (7) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(7)は、野母の風景・史跡。野母は続く。

長崎市野母崎行政センター、長崎市立野母崎中学校、前県道道路元標、海岸通りの児童作品、長崎市立野母崎病院、権現山展望公園の案内標識、無量山海蔵寺、熊野神社、同神社から港と町を見る、長崎市立野母小学校、庄屋跡の石垣、母ヶ浦海岸、対岸の造船所、のもざき朝市直売所

長崎さるくマップブック「野母崎界隈」80〜81頁による説明は次のとおり。

写真  9〜     無量山海蔵寺
慶長年間(1596〜1614)に僧・善金が野母に来て真宗の教義を布教、その後、万治3年(1660)僧・以峰によって開基、本願寺14代琢如上人から木佛尊像を下附され無量山海蔵寺と号しました。野母八景の屏風絵や多数の古文書を所蔵しています。
10代彰己住職は河原白朝の俳号で知られる俳人。権現山山頂には、俳人・下村ひろしの書による「蘭船このかたの水路や雲の峰」の句碑が建立されています。

写真 10〜     熊野神社     
斉明天皇4年(658)、紀州熊野の漁師夫婦の漂着により、夫婦の故郷の神、熊野神社の加護によるものと感謝し、自宅近くの丘に勧進しました。明治維新までは神仏混淆で、阿弥陀如来が祀られていたといいます。野母の地名の由来には諸説ありますが、この熊野神社の縁起によると、無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、「野の母」の野母と名づけられたといわれています。

写真 17〜     庄屋屋敷跡の石垣
野母小学校前、地元では城と呼ばれるこの界隈は、かつての領主・深堀(野母)仲家の居住地。仲家は深堀家の3男で、2男は高浜の領主でした。その後、庄屋となり、この地は今でもその名残がこの石垣に見られます。

写真 18〜     母ヶ浦海岸
最初にこの地に移り住んだ漁師夫婦のうち、夫は帰郷のため老母が1人残りました。母に抱かれた浦という意味で人々は母ヶ浦と呼ぶようになりました。

写真 20〜     のもざき朝市
野母崎三和漁協、約70名の組合員さん達が獲れ獲れの活魚を入荷。週末は開店30分前から行列ができる料理人さんにも人気の直売店。鮮魚が3分の2を占め、あとは地元で採れた野菜や水産加工品が並びます。アジやエソを原料としたカマボコが自慢の逸品です。