馬渡島の「花乃井」の記念碑 唐津市鎮西町
呼子・名護屋から船が着く馬渡港の桟橋から馬渡小中学校へ向う。坂道を歩いていると交番駐在所先の道脇左に、「花乃井」と字を浮かした見事な碑石を見た。
左の道に曲がると、「観音堂」へ出る。馬渡島と何の関係のない大阪の木綿問屋夫婦が島にいろいろな篤志をされ、観音堂も改築されたことは、HPで読んでいた。名はたしか「花子」。
この場所は今、コンクリートが張られているが、井戸跡に違いない。
そう思って碑石の裏面を見ると、由緒書きが刻まれていた。
「大阪の泉谷花子様大正七年来島の際多大の義捐をなされ其後学校に寄附或は観音堂の改築今又井戸を受く島人感謝して花乃井水を汲む 馬渡小学校長 彌富」。左面に「昭和六年二月」
「馬渡島のホームページ 歴史」馬渡島の大火災と禁酒令による説明は次のとおり。
この井戸の記念碑であり、花子夫人は昭和6年2月17日病死。当時の馬渡小学校長彌富忠六先生(多久市の方)が、夫人の遺徳を偲び、井戸に建てたられた碑であろう。心温まる記念碑である。花子婦人と楓田本真尼の写真も同HPから。最後が「観音堂」。
馬渡島の大火災
大正7年1月の末、玄海の風が吹き荒れるとき、小学校西側の小屋から出火し、本村の家屋
38戸、納屋30戸が一瞬にして灰となる大火事が起きた。玄海の一孤島ということで世の同情より、たくさんの義損金や品物が送られた。この中に、大阪で木綿問屋を営んでいた泉谷儀三郎・同花子という夫婦がいた。
馬渡島とは何の関係もなかったのであるが、愛知県の80歳になる楓田本真尼に託して蒲団・着物類その他たくさんの品々を寄贈した。この尼は老齢の身であったが、馬渡島まで渡って、一軒一軒丁寧に見舞いされ慰められた。夜はお説教などをして心を落ち着けられた。この時、観音堂の御仏体が壊れているのを見て、京都まで持ち帰り、自ら阪神の人々に寄付を求めて修理をし、立派になった観音様をわざわざ持参された。老尼は自らは極めて質素節約をされ、呼子・西唐津間の坂道を歩かれたという。施しのためにはすべてを放出され、その膨大の慈悲によって島の人々を仏の御教に導かれた。
泉谷夫婦は、死ぬまで何回も島を訪れ、孤島に住む子供たちの幸少ない生活に心をよせられ、盆や正月には学用品、玩具、蓄音機、ラジオ、包帯や薬などの医療用具など送られるのであった。そして3月には雛人形、5月には武者人形にまで。まるで自分の子や孫にやるように、その情のあふれた贈り物を送られた。また、不幸にして、儀三郎は大正14年に死去されたが、花子夫人は昭和6年2月17日の病死まで、各戸に仏像を配布され、観音堂を改築され、御詠歌の本やレコードを送られた。
また、島に水が少ないのを聞き、防水用井戸を2カ所を掘られ、「花の井」と名づけて石碑を立て、水道ができるまではこの水を使っていたそうだ。(今はコンクリートで埋められて井戸はない。ただ、馬渡駐在所の北側に記念碑があります。)
さらに、中等学校へ進む者に学費を補助されるなど、島の生活と信仰のためにつくされた。花子夫人が亡くなられてから、観音堂に三氏のご位牌を祭り、また二体の如来像を作って、毎年2月17日には感謝の意をささげていたそうである。泉谷夫妻の子の代まで品物を送るなど交流をしていました。
禁酒令
孤島と言うことで、島の人にとって酒は唯一の慰安として、葬儀の時でさえも四升樽を空にして 茶碗でグイグイと飲むという風習があった。そのため風紀が乱れ、生活苦は島民をドン底生活に突き落としていったそうだ。当時の校長彌富忠六先生(多久市の方)が嘆き、涙ぐましい努力をされて全島禁酒の申し合わせをし、昭和7年7月21日に名護屋全体の禁酒令が施行されました。