十人町の道塚は、本当に「みさき道」の道塚か
唐人屋敷から活水大学に登るすぐ右の石段脇にある。頭から溶けたような感じの石柱である。磨耗し刻面があったか全然わからない。地元の人たちの話で以前「みさき道」と変体仮名で刻まれていたという。この話は昭和61年「三和町郷土誌」の原田氏稿「観音信仰と御崎街道」に記されている。「みさき道」の出発点、道塚第1号とされ、平成17年、さるく博により立派な説明板が建てられた。
唐人屋敷や近くに野母権現山の遠見番所の当初10人の役宅があったことから、道塚の設置は考えられ、町名の由来もこれによるらしい。知る人はもう生きていなく、人によっては海岸がここまで来ていて、船のロープの「もやい石」でないかと言う人もいる。確かにほかの場所に現存する道塚と比べると、風化具合・材石などがだいぶん異なるようだ。
これは石が謎を問いかけ、具体的な記録がないかと調べていた。今回やっと古い2点の資料が集まった。次にその資料を紹介する。今となっては確認できる写真がないため、これ以上は何とも言えない。
まずは、長崎手帖社「長崎手帖 第三十二号」昭和38年6月発行、田栗奎作氏稿「碑のある町」15〜17頁の、カメラは春光社真木満氏による写真。
「みさき道 十人町一丁目の上り口にある。昔の野母脇岬街道の道筋を語るもの。数年前までは”みさきみ”の文字が読まれたが、今は辛うじて”き”の一字を見るのみ。」
残念なことにこの写真も道塚の遠景だった。長崎手帖を発行されていた田栗奎作氏は改訂前の「長崎原爆戦災誌」の編さんをされ、昭和61年8月亡くなられている。
春光社を訪ねたが、道塚の近景ネガはなかった。しかし、現社長が「長崎手帖」の保存版2冊を持っており、昭和30年の創刊号から昭和42年の第40号までが完全に保存されていた。長崎歴史文化博物館の郷土資料には数号しかない。
次は、長崎観光会史跡案内誌、昭和11年12月5日発行の第十一編「みさき道」の表紙図。この号は「みさき道」を表題としているが、表紙と内容はあまり関係がない。12月に小菅船架から女神検疫所方面を探訪する案内書として作成されており、「みさき道」の記述はまったくない。
しかし、翌号である昭和12年1月1日発行した第十二編「温故知新」一周年記念号に、毎回表紙図を担当している同会副会長平山國三郎氏が「表紙図案考」において、第十一編「みさき道」の表紙図は「十人町にある道しるべそのまゝの写生で、添景はありし日の戸町番所の写しです。」と述べられている。
貴重な資料は、北陽町片山氏が所持されている。