多布施反射炉・跡 佐賀市田布施3丁目
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多布施反射炉・跡 たふせ
佐賀市 反射炉(煉瓦造) 嘉永6(1853) WEB 場所は特定されているが遺構ゼロ ペリーの浦賀来航(6月)→品川台場の造営命令(7月)→幕府が佐賀藩に大砲50門(36ポンドカノン砲25門、24ポンドカノン砲25門)を注文→多布施に公儀石火矢鋳立所を置く(上記「築地反射炉」では対応できなかったため)→鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた→安政2(1855)に25門を鋳造〔しかし、嘉永7(1854)2月には、ペリーが江戸湾に9隻の艦隊を集結させ、結果的に3月には日米和親条約が締結され、台場の大砲が使われることはなかった〕 4 A
佐賀市地域文化財データベースサイト”さがの歴史・文化お宝帳”の「多布施反射炉跡」も参照。
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=451
佐賀市HPの世界遺産の項「多布施反射炉跡」には、次のとおり記している。
■現在の姿
現在、その跡地は住宅などの建物が立ち並び、全くと言っていい程その遺構を残していません。
反射炉敷地推定地南端に所在する赤石組みの水路と往時から変わらない清流の多布施川だけが、当時の姿を偲ばせてくれます。
平成21年度には、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補入りを目指して、発掘調査を行いました。