月別アーカイブ: 2015年9月

烏嶽円形分水  豊後大野市緒方町小原 ( 大分県 )

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烏嶽円形分水  豊後大野市緒方町小原

市報「ぶんごおおの」2009年8月号No.53による記事は、次のとおり。原尻の滝入口から県道7号により尾平越トンネルの方に向かう。烏嶽の麓、小原地区に案内標識あと2.4kmがあり大規模林道「宇目・小国線」へ入る。しばらく進むと右下への入口道があり、徒歩で10分ほど下った森の中に、直径約4mの円形分水がある。
豊後大野市では1カ所だけ。竹田市にもあるが、全国をみても30カ所程度しかない珍しい構造物らしい。

烏嶽円形分水
緒方町小原地区に烏嶽円形分水がある。長谷緒井路本線の水を小原方面と上緒方方面に分水するため、水路の水はサイフォンの原理を利用して、円形分水の手前から潜り中央から吹き上がる。
昭和13年の通水から71年間、常に一定の比率で分水され合理的な構造。豊かな実りを願った先人たちの思いが今も生き続けている。(通水時期は毎年5月連休明けから9月末)

木南切のエノキ・木南切のタブノキ  豊後大野市清川町平石(柏野) ( 大分県 )

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木南切のエノキ・木南切のタブノキ  豊後大野市清川町平石(柏野)

豊後大野市HPの市指定文化財(天然記念物)による説明は、次のとおり。「木南切のエノキ」は、轟橋手前から県道410号へ上がる坂道町道の入口右にある。「木南切のタブノキ」はこの町道を上がって行き、県道410号へ出る途中から左にバラス農道を少し下る。

木南切のエノキ
木南切の市道脇、轟地区に向かって右側にあるエノキの巨木で、ニレ科エノキ属の落葉高木である。樹高15m、胸高幹囲5.5mである。
所在地:清川町平石(柏野)
指定年月日:平成17年3月31日市指定(昭和63年10月1日清川村指定)

木南切のタブノキ
木南切の墓地にあるタブノキは、クスノキ科タブ属の常緑高木である。胸高幹囲2.6mなどの巨木で覆われている。他にカゴノキ、スギ、ヤマザクラなどが生育している。
所在地:清川町平石(柏野)
指定年月日:平成17年3月31日市指定(昭和63年10月1日清川村指定)

轟 橋・出会橋  豊後大野市清川町左右知 ( 北海道 )

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轟 橋・出会橋  豊後大野市清川町左右知

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道502号「道の駅きよかわ」から県道45号に入り、途中の清川中学校先から県道668号に入る。先が工事中だったので宇田枝から岩上橋を渡り県道410号に出た。難解な県道をひたすら進むと、柏野峠に轟橋・出会橋の案内標識があり、下って行くと奥嶽川に架かるこの2つの橋に出る。

上流のが「轟橋」。下流のが「出会橋」。轟橋手前に休憩所があり、私は一周遊歩道で「轟橋」を渡り、それから下流の「出会橋」を渡ってその川岸へ下り、念願のツーショット石橋を写した。この日は水量やや少なく、何とか流されずに対岸へ渡渉できたのは幸いだった。(現地説明板とツーショット3枚は、ズーム拡大)

№717   轟(とどろ)橋

豊後大野市清川町左右知地区
奥岳川
橋長:68.5m  径間: 左:32.18m 右:26.5m
架設:昭和9年(1934)
形式:2連石造アーチ
岩上橋を通り過ぎ左折、約5Km先です。
または、清川中学校の3差路を天然橋方面ではなく右折、約7Km。細い道を、橋の存在を信じてただ走るのみ。

日本に誇るアーチ石橋
「豊後大野市清川町(旧清川村)の奥嶽川に架かる二つの石橋“轟橋”と“出合橋”の径間(アーチの両端を結ぶ直線距離)がそれぞれ全国1位と2位であることが平成10年に行われた東和大学工学部建設工学科(福岡市)の徳永講師グループらの調査で明らかとなった。
調査の結果、轟橋の径間は32.102mと26.521m、出合橋は29.3mと確認され、それまで日本一とされていた熊本県美里町(旧砥用町)の霊台橋の28.4mより長いことが実証された。
もともと“轟橋”は1934年(昭和9年)に営林署の林道軌道橋として設置され昭和30年頃までは木材を満載したトロッコが渡っていた。
現在は町の左右知と平石を結ぶ生活道の一部として使われている。
また下流に架かる“出合橋”は1925年(大正14年)に旧清川村轟・平石地区の住民によって架けられた。」
豊後大野市

「営林署が清川村に、木材運搬用の石造軌道橋として昭和7(1932)年につくった。傾山麓の木材をトロッコに積み、ディーゼル機関車で牧口駅近くまで牽引した。昭和35(1960)年に全線(約30km)を村に払い下げ、現在は村道となっている。」

№23   出會橋

豊後大野市清川町左右知
形式:1連石造アーチ
橋長:32.3m  径間:29.3m
完成:大正14年(1925)
轟橋から下流に見えます。

岩 上 橋  豊後大野市清川町宇田枝 ( 大分県 )

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岩 上 橋  豊後大野市清川町宇田枝

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道502号「道の駅きよかわ」から県道45号に入り、天然橋より300m東進し、右折。約1km先右折、奥獄川を渡るとき、左手に見える。

№22   岩上橋

豊後大野市清川町 宇田枝(うたえだ)
市指定有形文化財
形式:1連石造アーチ
橋長:26.0m  橋幅: 2.8m  径間:26.08m
完成:大正8年(1919)
天然橋より300m東進し、右折。約1Km先右折、奥獄川を渡るとき、左手に見えます。

岩上橋
「旧合川村の村道として架設されたもので村内では深谷橋についで2番目に古いものです。
昭和56年に下流に新岩上橋が架設され今は歩道橋として保存されています。平成5年の台風のとき奥嶽川が増水し、左岸の壁石が崩壊しましたが復旧工事で直されています。他の部分は架設当時のまま残っています。なお、水面から橋面までの高さは 14.5m です。」
市教育委員会

天 然 橋  豊後大野市清川町宇田枝 ( 大分県 )

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天 然 橋  豊後大野市清川町宇田枝

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道502号「道の駅きよかわ」から県道45号に入り約2km、清川中学校の左手先の奥岳川に架かる。

№21   天然橋

豊後大野市清川町 宇田枝
市指定有形文化財
橋長:15.0m  橋幅:3.0m  径間:15.0  拱矢:6.0m
完成:大正10年(1921)
国道502号線「道の駅きよかわ」より県道45号線に約2Km。清川中学校の左手先。道の駅に観光パンフレットが置いてあり、石橋の地図も掲載してあります。
奥獄川の最下流にあります。水の青さがとても綺麗です。

天然橋
「この天然橋は、奥嶽川に架設された主要県道宇目清川線の橋であったが、昭和60年8月、上流に新橋が架設されて現在は、廃道となっている。
架設記念碑によれば、明治9年に木橋が架けられたが、その後たびたび補修を要したため、上流に向かって右岸の牧口村左草区と左岸の合川村宇田枝区で協議の上、大正9年10月に起工し、翌10年3月に竣工しており、工費は5,772円で、地元住民を中心に160名が5,300余円を寄付している。
石工は、棟梁が竹田町(当時)在住の山下嘉平で、本村の界寿光、工藤子己両氏の名前もある。水面からの高さは14.7mある。
・大正10年(1921年)3月架設
・橋長15m、橋幅3m、径間15m」
市教育委員会

沈堕の滝  豊後大野市大野町矢田‎ ( 大分県 )

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沈堕の滝  豊後大野市大野町矢田‎

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道502号岩戸橋手前の下辻交差点から県道26号に入る。

沈堕の滝
沈堕の滝(ちんだのたき)は、大分県豊後大野市大野町矢田‎にある滝。2007年7月26日に、国の登録記念物として登録されている。
概要
大野川の中流にある雄滝と、その支流の平井川の合流口にある雌滝とからなる。雄滝は高さ約20m、幅約100mで、雌滝は高さ約18m、幅4mである。柱状節理が並ぶ景観は、「豊後のナイアガラ」、「大野のナイアガラ」とも呼ばれる(なお、同市緒方町にある原尻の滝は「東洋のナイアガラ」と呼ばれている)。
古くからの名瀑であり、室町時代の1476年(文明8年)には、雪舟が訪れ「鎮田瀑図」を描いたことでも知られる。なお、「鎮田瀑図」は関東大震災で焼失しており、狩野常信による模写(京都国立博物館蔵、画像)が現存するのみである。
1909年(明治42年)に豊後電気鉄道株式会社によって別大電車のために沈堕発電所が建設されて、雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられ、1923年(大正12年)には堰がかさ上げされたため水量が減少して往時の景観が損なわれた。しかし、1996年(平成8年)からの堰堤強化工事に伴い、常に一定量の放流が行われるようになり、かつての壮大な景観を取り戻した。
雄滝と雌滝の間には、石造の沈堕発電所跡地(近代化遺産)がある。

岩戸一里塚  豊後大野市清川町臼尾 ( 大分県 )

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岩戸一里塚  豊後大野市清川町臼尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。国道502号清川町岩戸橋手前から右折して旧国道の広地まで出る。右側の細い坂道の方が日向街道。しばらく登って進むと、岩戸一里塚に着く。所在図参照。

岩戸一里塚 いわど
豊後大野市 <日向道> 一里塚(1基) 高約2m,径約5m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・日向道p38 お椀状から相当形態が崩れている/塚木なし 4 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定史跡  岩戸一里塚
一里塚とは、街道の一里ごとにその目印として、道の両側に設置された塚で、例外もあるがふつうその上には榎が植えられ、遠くからも望見でき旅行者の便をはかったものである。
一里は三十六町を原則としており、これは古来六町、四十町あるいは五十町をもって一里とするなどまちまちであったのを天正(1573〜91)年間、織田信長(1534〜82)が三十六町を一里に定めたものを踏襲している。
こうして構築された一里塚は、旅人にとっては里程の目安また日ざしの強い日には木かげの休憩所となった。
一里塚のある道路は、貢祖道路(年貢を運ぶ道)として、また旧岡藩、旧臼杵藩の藩内各組への連絡道として人々の往来に使用されていた道で、通称殿様道とも呼ばれていた。
豊後大野市教育委員会

木野の道標  豊後大野市緒方町木野 ( 大分県 )

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木野の道標  豊後大野市緒方町木野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを過ぎた緒方町下徳田の先、米山交差点から県道410号に入り、西へ木野入口まで向かう。右へ坂道を登ると木野集落があるが、集落への途中、左側奥に木野天満神社が見える。
神社前まで行き、左へ回り込む里道をなお進むと、三叉路の角にこの道標が立つ。現緒方町尾平へと、現清川町宇田枝の御嶽神社方面への分岐道標のよう。

木野の道標 きの
豊後大野市 <岡城〜尾平鉱山> 石道標 (尖頭角柱) 高71㎝ 江戸期 市有形 市教委 原位置? (正面)「右 おひら/左 おん多け」(=尾平鉱山,御嶽神社) 1 –

豊後大野市HPの市指定文化財による説明は、次のとおり。

木野道標
総高71cmの石塔で「右おひら 左おんたけ道」と刻まれている。岡城より尾平鉱山に続く街道の御嶽神社方面への分岐点を示すために設け建てられたと考えられる。
所在地:緒方町木野978
指定年月日:平成17年3月31日市指定(平成17年1月26日緒方町指定)

亀 甲 橋  豊後大野市緒方町下徳田 ( 大分県 )

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亀 甲 橋  豊後大野市緒方町下徳田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを過ぎて緒方町下徳田の先、米山バス停から左折したところに架かっている。私は冬原監物の石畳から帰りにこの道へ下った。

№88   亀甲(かめのこう)橋

緒方町下徳田
徳田川
橋長:15.5m  橋幅:4.0m  径間:11.0m  拱矢:4.0m  環厚:70cm
国道502号線緒方町から県道7号線へ約7km行くと「米山」バス停、左折したところに架かっています。

監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原 ( 大分県 )

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監物の石畳・冬原の里塚石(三里)(監物の道標)  豊後大野市緒方町冬原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによる説明は、次のとおり。県道7号新赤川トンネルを出て左折、またすぐ右折して徳田川の橋を渡り、まっすぐ登って行くと、高台に監物の石畳の史跡案内板があり、里塚石も脇に立つ。

監物の石畳 けんもつ
豊後大野市 (冬原) 石畳道 江戸期 市教委 道路工事→石畳を移設・復元(出土した石材を利用したが、原形と異なる形状になった) 3 –

冬原の里塚石(三里)(監物の道標)
ふゆばる 豊後大野市 <岡城〜木浦鉱山> 一里石 江戸期 市教委 毀損した部分を復元 (正面)「岡ヨリ 三里」/岡藩の岡城からの距離を示す里塚石 C

現地説明板は、次のとおり。

冬原監物の石畳
江戸時代に岡城を起点とし、三重方面、宇目方面、木浦方面、尾平方面に街道が延びていた。
この街道の一つである監物の石畳は、平成8年のの農道建設により発掘されたものである。ここは岡〜木浦間の主要道路で、県道緒方高千穂線が整備されるまでは、地域間を結ぶ主要道路であった。「殿様道」とか「木浦街道」とか地元の人々は呼んでおり、約30年ほど前までは里道として使用されていた。
石畳は、砂利を敷いたり開墾したりしたため地下に埋っていたが、表土をどけると、幅約1.5m、延長約50mにわたり、整然と並んでいた。材質は、阿蘇溶結凝灰岩の比較的軟らかい部分で、石の厚さは約15cm〜20cm位である。石畳の下は赤土で、雨が降ると非常に滑りやすいため、急な部分に石を敷きつめたものと考えられる。
石畳を登りつめた峠には茶店があったとの伝承があり、発掘により石の間から多数の磁器片が出土した。ほとんどの磁器片は18世紀後半の肥前系(佐賀・長崎地方)の物で、1点だけが萩焼の破片であった。
宗旨奉行井上快助の紀行文「踏絵紀行」(天保12年:1841年)によると、「監物の出店に出て」との記述があり、19世紀後半に茶店が営業していたことがわかる。
茶店があった所は、畑になっており、畑の端には「○○○○里 冬原村 監物」と刻まれた道標がある。上部が欠損しているが、地元の人々によると「岡より三里」の道標とのことである。現在の石畳は、移転し復元したものである。